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江戸無血開城、歴史的瞬間の真相~単なる西郷・勝の腹芸ではなかった?

2018年03月13日 公開

歴史街道編集部

西郷南洲勝海舟会見之地碑
西郷南洲勝海舟会見之地碑
(東京都港区)
 

[今日は何の日] 慶応4年3月14日、西郷隆盛と勝海舟が会談。江戸城総攻めは中止に

慶応4年3月14日(1868年4月6日)、勝海舟と西郷吉之助の会談により、江戸城無血開城が決まりました。新政府軍の江戸城総攻撃を翌日に控えてのことです。

映画や小説では、勝と西郷の腹芸のうちに会談がまとまったように描かれますが、実際の勝は、新政府軍の攻撃を中止させるだけのあらゆる手段を講じた上で、この会談に臨んでいました。

まず勝は、1月に抗戦を勧めるフランスと手を切り、イギリスとの関係を修復。2月に前将軍・徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎すると、それを追って江戸で彰義隊が結成されます。勝は江戸町火消し「を」組の組頭・新門辰五郎をはじめ、香具師や博徒の親分を自ら一人ひとり訪ね、万一新政府軍が江戸攻撃を強行した際は焦土作戦への協力を要請、江戸の市民を房総に避難させる手筈を整えます。

3月に入ると英公使パークスと通訳のアーネスト・サトウが横浜に帰着。勝は頻繁に連絡を取って、新政府軍が慶喜処刑を強行する場合は、慶喜を英軍艦に乗せて亡命させることも考えました。

同じ頃、新選組を甲府へ、幕府歩兵隊を羽生へと出立させ、東山道、北陸道から江戸に迫る新政府軍を牽制。さらに3月9日には勝の書簡を携えた山岡鉄太郎が、駿府まで進軍していた西郷に会いますが、この時、江戸から山岡に同行した薩摩藩士・益満休之助は、鳥羽・伏見の戦いの前に、江戸で乱暴狼藉を働いて幕府方を挑発した張本人で、その後、勝が保護していました。勝が山岡に益満を同行させたのは、西郷に「謀略を仕掛けたことを俺は知っているぞ」と暗に伝えたのです。

そして3月13日、高輪で勝と西郷の最初の談判が行なわれます。しかし勝はこの日、和宮を人質にしないことだけを伝え、本題は翌日に先送りしました。実はこれには重大な意味がありました。同じ日、新政府軍の木梨精一郎が横浜のパークスを訪ね、江戸で戦いになった際の負傷者の治療を依頼すると、パークスは「恭順している慶喜を討つのは武士道にもとり、万国公法にも反する」と拒絶、それでも戦うのならば横浜の居留民保護のため、英仏軍を展開させると恫喝したのです。裏付けはありませんが、勝の手回しだったはずです。

イギリスを敵に回す恐れありという木梨の報告に西郷は仰天し、翌14日の芝田町での再度の勝との会見で、江戸無血開城を西郷は承諾しました。もちろん、諸外国の目前で内乱を起こすべきではないという大局観は西郷も持っていたでしょうが、それよりもこの談判は、あらゆる手立てを尽くして臨んだ、勝の気迫が勝ったというべきでしょう。



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