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佐川官兵衛~薩長を震え上がらせた会津の「鬼佐川」

2018年03月18日 公開
2022年08月08日 更新

3月18日 This Day in History

佐川官兵衛討死之地碑(熊本県南阿蘇村)
佐川官兵衛討死之地碑(熊本県南阿蘇村)
 

【今日は何の日】明治10年3月18日、佐川官兵衛が西南戦争で戦死

明治10年(1877)3月18日、佐川官兵衛が西南戦争で戦死しました。戊辰戦争では薩長から「鬼佐川」「鬼官兵衛」と恐れられた会津藩家老です。大河ドラマ「八重の桜」では中村獅童さんが演じていました。
 

鬼官兵衛、「別撰組」を率いて鳥羽伏見で奮戦

官兵衛は天保2年(1831)、会津藩士・佐川幸右衛門直通の長男に生まれました。諱は勝。父・幸右衛門は物頭を務め、300石を食んでいます。 官兵衛は武芸に優れ、天性の武人の資質がありましたが、性格は人情に篤く、直情径行。江戸詰めの折、本郷の大火に際して、幕府の火消しと刃傷沙汰を起こし、国許で謹慎を命ぜられます。

会津藩主・松平容保が京都守護職となると官兵衛も上洛、物頭を務め、京都学校奉行に任ぜられます。さらに、精鋭の藩士で構成された「別撰組」を率い、藩主の外出時などには、その護衛役を果たしました。京都には官兵衛の弟の又四郎もいましたが、村田新八ら薩摩藩士と乱闘になり、又四郎は闘死しています。慶応年間頃のことでしょうか。

王政復古の大号令後、京都守護職を解かれて大坂城に退去した会津藩において、官兵衛は主戦派の先頭となり、非戦派の神保修理や山本覚馬らとは対立することになります。そして慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。官兵衛は伏見で薩摩兵と衝突し、大砲隊を指揮する林権助と協力しつつ奮戦し、右目を銃弾で負傷しながらも、刀を折るほどの凄まじい戦いぶりを見せました。

この官兵衛の獅子奮迅の姿から、敵兵が「鬼佐川」「鬼官兵衛」と呼んだといわれます。また退却する際に、官兵衛は唐傘を差して顔を隠しました。 味方が「標的になる」とやめさせようとすると、「こんな負け戦をして、みっともなくて顔をさらせるか」と応えたという逸話も伝わっています。
 

越後、会津を転戦。さいごまで薩長と戦い抜く

鳥羽伏見後、会津に戻った官兵衛は越後戦線に出陣し、河井継之助が統括する越後長岡藩を奥羽越列藩同盟に迎えます。しかし北越戦争は新政府軍優勢で推移し、官兵衛は会津若松に帰還しました。8月1日には軍事奉行を任ぜられ、400石に加増されて若年寄となります。さらに新政府軍が白河方面からも迫る中、8月11日に松平容保より家老就任を命ぜられ、官兵衛は一躍、1000石の家老となります。それだけ容保の期待が大きかったことがわかるでしょう。

8月21日に母成峠を突破されると、新政府軍は会津城下へと殺到しました。8月28日、翌未明を期して会津藩の精兵1000人をもって敵陣へ奇襲をかけることになり、官兵衛はその指揮を委ねられます。しかし、藩主から下賜された酒を飲みすぎた官兵衛は寝過ごしてしまい、攻撃は夜が明けてからの強襲となって失敗しました。官兵衛はこれを恥じたのでしょう、以後城に戻らず、野外で遊撃戦を続けます。

9月5日には敵の一部隊を住吉河原で撃退し、鹵獲した武器弾薬を城へ送り届けました。劣勢覆うべくもない中、官兵衛は抗戦を続け、会津藩降伏後もなお大内宿方面で戦い、松平容保の命令でようやく戈を収めます。会津藩降伏の折、家老の萱野権兵衛が全責任をとって切腹しますが、官兵衛は自分に腹を切らせてほしいと懇願しました。奇襲失敗の責任を抱き続けていたのでしょう。
 

警視庁に奉職、西南戦争に参戦

会津藩が下北半島の斗南藩へ移封になると、官兵衛は他の藩士とともに青森の五戸町へと移住し、老母とともに極貧生活を送ります。廃藩置県で斗南藩がなくなると、官兵衛は薩摩の川路利良の要請を受けて、警視庁に出仕しました。最初は出仕を断っていた官兵衛でしたが、自分の出仕が困窮にあえぐ他の会津士族300人の奉職につながると知って承諾。一等大警部となります。決して高くはないポストでした。

3年後の明治10年、西南戦争が勃発すると、警視庁から東京警視隊9500人が別働第三旅団として派遣されることになり、官兵衛も巡査200人を率いて豊後竹田から坂梨へ向かいます。途中、阿蘇の二重峠にすでに薩軍の有力部隊が進出している情報をつかみ、上官の檜垣直枝に即時攻撃を進言しますが容れられず。数日を経て、ようやく官兵衛の出撃策が認められます。しかしすでに敵は堅牢な陣地を築いた後でした。

3月18日未明、抜刀した佐川隊が薩軍陣地に斬り込み、壮絶な白兵戦が展開されます。官兵衛は薩軍の隊長・鎌田雄一郎と斬り結びます。薩摩といえば一撃必殺の示現流で知られますが、官兵衛の学んだ溝口派一刀流には、それをかわす秘太刀があったともいわれます。官兵衛は鎌田の示現流をかわして追い詰めますが、横合いから銃撃を胸に受け、戦死しました。享年47。 

君がため都の空を打ちいでて 阿蘇山麓に身は露となる

進発の朝、真新しい肌着に身を包み、明神ヶ池の水を飲んだあと、官兵衛が詠んだといわれる辞世です。

官兵衛の戦死の報に川路利良は、「豊後口の総督は佐川氏にすべきであった。わが不明のために、あたら勇将を死なせてしまった」と痛嘆したといわれます。鬼官兵衛らしい最期と、いえるのかもしれません。

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