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天智天皇が遷都した近江大津宮

2018年03月19日 公開

歴史街道編集部

近江大津宮錦織遺跡(滋賀県大津市)
近江大津宮錦織遺跡(滋賀県大津市)
 

[今日は何の日] 天智天皇6年3月19日

中大兄皇子が近江大津宮に遷都

天智天皇6年3月19日(667年4月17日)、中大兄皇子(後の天智天皇)が飛鳥より近江国大津に遷都しました。

7世紀はじめ、朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の3国に分かれていました。やがて新羅が力をつけてくると朝鮮半島の統一を目指し、唐と組んで百済に攻め込んできます。そこで日本は百済救済の軍を派遣しますが、新羅・唐連合軍に白村江で大敗。百済は滅亡し、日本軍は百済の遺民とともに帰国します。

白村江の戦いでの大敗により、日本は新羅・唐の侵攻に備えることになります。まず、九州の大宰府に「水城」という防衛施設を設置して、九州から瀬戸内海にかけて山城を築きます。さらに瀬戸内海からの敵軍の侵攻に備えるため、内陸部に都を移すことが計画されます。その結果生まれたのが近江大津宮です。中大兄皇子は、飛鳥から遠い大津に遷都することにより、さまざまなしがらみを断ち切って、新しい国づくりをめざすのです。。

その後、中大兄皇子は大津宮で即位し(天智天皇)、この地でさまざまな改革を進めていきます。日本で最初の律令法典「近江令」の制定、初の戸籍「庚午年籍」の編成、水時計(漏刻)を用いた時報制度など、天智天皇の下、律令国家の基礎となる諸政策をすすめていきます。しかし天智10年11月2日、天智天皇は病のため志半ばで崩御。その後の朝政は大友皇子が執ることになります。

その後、大海人皇子が挙兵し、吉野、伊勢、美濃の豪族を率いて近江へと攻め込んできます。壬申の乱です。大友皇子の近江朝軍は瀬田橋で迎え撃ちますが大敗、大友皇子は自害し、大津宮は戦火の中で、わずか5年余りで消滅してしまうのです。

……ささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる かすみたつ 春日の霧れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも

後年、荒れ果てた旧都を訪れた柿本人麻呂が詠んだ歌です。

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