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西竹一と愛馬ウラヌス~硫黄島で戦死した金メダリストの悲話



2018年03月22日 公開

3月22日 This Day in History

硫黄島
西竹一が戦死した硫黄島
 

【今日は何の日】昭和20年3月22日、西竹一(バロン西)が硫黄島で戦死

昭和20年(1945)3月22日、西竹一陸軍中佐が硫黄島で戦死しました。ロサンゼルスオリンピックの馬術大障害飛越競技で、金メダルを獲得した「バロン西」の名で知られます。2006年のクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」では、伊原剛志さんが演じていました。
 

西竹一の生い立ち

西竹一は明治35年(1902)、男爵西徳二郎の3男として、東京の麻布笄(こうがい)町(現在の港区西麻布)に生まれました。父親の徳二郎は外務大臣や枢密顧問官などを歴任し、駐清国公使時代に、北清事変(義和団の乱)の北京籠城を戦った人物です。明治45年(1912)、竹一が10歳の時に父・徳二郎が死去。2人の兄も幼少で他界していたため、竹一が跡継ぎとして男爵となります。

大正4年(1915)、学習院初等科から府立一中(現在の日比谷高校)に進学しますが、2年生の時に陸軍幼年学校へ進路変更しました。広島陸軍幼年学校で竹一は、馬術に親しみます。もともと華族として乗馬は嗜んでいましたが、陸軍士官学校予科に進学すると、兵科は「騎兵」を選びました。大正13年(1924)、陸軍士官学校(本科)を22歳で卒業、さらに昭和2年(1927)に25歳で陸軍騎兵学校を卒業して、騎兵中尉に昇進します。

士官学校予科の頃のエピソードで、自動車を購入した竹一は、麻布・赤坂界隈を猛スピードで走り回り、警察が「西を捕まえろ」と動きますが、竹一が麻布警察署に職員宿舎を寄付すると、その管内では黙認されるようになったという話もあるようです。

竹一の性格はいたって天真爛漫でさっぱりしていたといい、その育ちから金銭感覚が常人と異なるところはあったものの、豪快な快男児という印象でした。そんな性格が、後にアメリカで人気を呼ぶことになります。
 

愛馬ウラヌスと出会い、オリンピックで金メダルも……

昭和5年(1930)、軍務で欧米に出張していた竹一は、友人から「大きくて乗りこなせる者がいない、いい馬が売りに出ている」という情報を得て、イタリアでその馬・ウラヌスと出会い、自費購入しました。このウラヌスと竹一は訓練を積み、最良のコンビとなります。

昭和7年(1932)、竹一はウラヌスとともに、ロサンゼルスオリンピックの馬術大障害飛越競技に出場。世界の強豪たちが失敗する中、竹一とウラヌスは見事な実技を示し、金メダルを獲得しました。 インタビューで竹一が「We won!(我々は勝った)」と自分とウラヌスは一体であると表現した言葉に世界が感動し、「バロン(男爵)西」の名は一躍知られます。

特にアメリカでは受賞パーティーに映画スターも参加し、竹一はハリウッドの女優たちから熱烈な支持を受け、ロサンゼルスの名誉市民に決まるなど、当時アメリカで吹き荒れていた排日の嵐を忘れさせるかのような、人気者となりました。 一方、陸軍内で竹一は、他の軍人のように頭を丸刈りにせず、七三に分けた長髪の伊達男で通し、またアメリカに親しみを抱くことから、上官の受けは必ずしも良くありません。 

その後、竹一は昭和14年(1939)に陸軍騎兵少佐に昇進。しかし時代の流れは騎兵から戦車や自動車歩兵へと移っており、竹一も太平洋戦争開戦後の昭和17年(1942)には、戦車部隊である第26師団捜索隊長となります。
 

バロン西、硫黄島で戦死

昭和18年(1943)、竹一は陸軍中佐に昇進。翌昭和19年には戦車第26連隊の連隊長を拝命して、満洲北部の防衛につきました。しかし、それも束の間。同年6月には、激戦が予想される硫黄島への動員が命ぜられます。

硫黄島に赴く前、竹一は馬事公苑で余生を送っていたウラヌスに会いに行きました。竹一の足音を聞き分けたウラヌスは狂喜し、竹一に首を摺り寄せたといいます。これが、竹一とウラヌスの別れとなりました。

昭和20年(1945)、硫黄島で竹一は、小笠原兵団(兵団長兼第109師団長・栗林忠道)直轄の戦車第26連隊を指揮することになります。2月19日、アメリカ軍は硫黄島に大挙して攻め寄せました。海を埋め尽くす艦船と航空機の爆撃の掩護のもと、硫黄島に上陸する部隊は6万。後方部隊を含めると、実に16万。アメリカの将は5日で攻略すると豪語します。

対する栗林中将以下、硫黄島守備隊は2万余り。しかし栗林らは、大規模な地下陣地を構築しており、上陸前のアメリカ軍の地形が変わるほどの激しい艦砲射撃も空爆も、地下陣地にはダメージを与えてはいませんでした。 そして竹一は、上陸してきたアメリカ海兵隊のM4中戦車と激闘を演じます。97式中戦車や95式軽戦車の特性を活かして、時に砲塔を外して砲台として活用したり、あるいは遺棄された敵の武器を修理して活用、粘り強い戦いを続けました。

また負傷して置き去りとなった敵兵には、乏しいながらも医薬品を投与して治療を施しています。映画「硫黄島からの手紙」にも、竹一が手当てをした敵の若い兵士に英語で語りかけ、兵士が、敵将がバロン西であると知って驚く場面が描かれていました。

3月22日、竹一は戦死します。しかしその正確な状況は今もってわかっていません。3月17日に本部との連絡が途絶えており、敵中突破中に被弾して戦死した、自決した、あるいは目を負傷して視力を失いながらも戦って戦死したともいいます。さらには敵のM4戦車を奪い、味方を装って敵陣に入って、周囲に向かって砲撃を加え、やがて撃破されたその戦車に乗っていたのが竹一ではないか、ともいわれます。竹一が戦死する前、バロン西の命を惜しむアメリカ軍が投降を呼びかけたともいいますが、これも定かではありません。

竹一は死ぬ時まで、愛馬ウラヌスのたてがみを身につけていたといわれ、そのたてがみが後に発見されています。竹一、享年42。そして竹一戦死から1週間後、愛馬ウラヌスもその後を追うように死んでいます。



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