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古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨

2018年04月02日 公開

歴史街道編集部

山中鹿之介
 

諸説ある最期、背後には足利義昭が?

楠木正成とともに忠臣中の忠臣といわれる山中鹿介幸盛は、毛利によって主君尼子氏が月山富田城(島根県安来市)に滅びた23歳の時、「願わくば我に七難八苦を与え給え」と守り神の三日月に祈り、尼子再興に執念を燃やした。

だが以後苦節9年、尼子氏の再興を賭けた毛利との戦いで、鹿介らは織田信長を頼って上月城(兵庫県佐用郡佐用町)に籠ったものの、苦境の羽柴秀吉軍は救援を出せず、またも毛利のために主君・尼子勝久は自害し、鹿介は降伏した。降伏したのはなお生きて再興の夢を果たそうとしたからである。

だがその夢は無残に打ち砕かれた。当時、毛利輝元は備中松山城にいた。囚われの身となった鹿介は、妻子・家臣60人と備中松山城に送られる途中、城を目前とした阿井の渡し(岡山県高梁市落合町)に着いた。阿井の渡しは高梁川と成羽川の合流地点にあった。

『中国兵乱記』によれば、鹿介は一番最初の舟で対岸に渡り、石に腰かけて待った。

舟が戻ると妻子、家人を乗せて再び舟を川中に押し出した。だが、かねての計画通り護送役が舟のノミを抜いて水を入れた。妻子らが慌てふためくのを見て、鹿介が地団駄だを踏むところを、土手の内に隠れていた天野五郎右衛門の郎党数人が襲った。河村新左衛門が斬りつけ、鹿介の右腕を斬り落とした。鹿介はそれでも応戦して、討っ手3人を死亡させ、4人に怪我を負わせて踏ん張ったが、力尽きて討ち取られたとされる。

鹿介の最期には諸説いろいろある。地元では先に家来らを渡し、鹿介が最後に残り、石に腰かけて休んでいたところを、堤の陰から躍り出た河村新左衛門に後ろから袈裟掛けに斬りつけられたという。鹿介は深手を負いながら川に飛び込み、対岸に渡ろうとした。これを新左衛門が追い、さらに仲間の福間彦右衛門も飛び込んで、川中で取っ組み合いとなった。肩を斬られていた鹿介は彦右衛門に組打ちにされて首を取られたとされる。時に天正6年(1578)7月17日、鹿介は34歳(子孫の鴻池家系図では45歳)だったという。

殺害は毛利輝元が鹿介を生かしておけば将来に禍根を残すとして殺害を命じたとも、輝元に無断で家臣が実行したともいう。また、信長側についた鹿介を快く思わない足利義昭が命じたともいわれるが、その辺ははっきりしない。

鹿介の首と妻子の身柄は松山城の輝元のもとに届けられ、その後、足利義昭がいた鞆の浦に送られたのだった。妻子は許されて自由の身になるが、その妻は亀井秀綱の長女千明で、子供は娘の八重一人(もう一人既婚の養女がいた)だけとされる。また鹿介の表記だが、昔から鹿助、鹿之介、鹿之助とさまざまに書かれて一定しない。
 

亡骸が葬られたのは古墳時代の……

首のない鹿介の遺体は、高梁川の中州に捨てられていた。それを観泉寺の珊牛和尚が収容し、西に1.5キロほど行った自分の寺に運んで荼毘に付した。そして戒名を「幸盛院鹿山中的居士」として位牌を立て、遺骨を古墳の石棺に納めた。

付近は4、5世紀の古墳がたくさんあり、1人もしくは2人用の石棺も多く出土しているが、寺近くの石棺に遺骨を安置し、胴塚としたのである。このことについて、位牌の裏に「山中鹿之介幸盛、昔当村に於いて心安泉下、身を石金堂に収める」として、石棺を石金堂と称している。

これに対して、鹿介が殺されて遺体があった川の中州は、流路が東側に変わり、西岸と中州がつながった。そこに榎が植えられ、その木の下に五輪塔が建てられた。しかし宝永・正徳期(1710年前後)の大洪水で、五輪塔も大木に成長していた榎も流失した。

そこで正徳3年(1713)10月に、備中松山藩主・石川総慶の家臣・前田時棟が足軽の佐々木郡六と協力して石碑を建立した。これが現在、落合橋近くにある山中鹿介の墓(供養塔)である。

この供養塔は台座からの高さが2.19メートル、碑だけの高さが1.71メートルあり、正面に「山中鹿之介之墓」、右側に「正徳第三龍集葵己十月建」と彫られ、裏には鹿介を賛美する前田時棟銘の漢詩が刻まれている。

そして『落合村誌』は次のような興味ある記事を載せる。「鹿之介の遺骸は正徳三年から四十三年を経た宝暦六年(一七五六)の十一月に阿部村西半治郎の書上の中に『遺骸は石田畑と申す所に納れ有之様に申し伝へ候…』とあって、観泉寺珊牛和尚が葬った事が事実のようである」とし、さらに「石田畑は赤羽根で丘の中腹であるが、七十年程前(注:村誌発行から逆算して明治二十年頃)に此処から石棺が出たので、美簱、堀、谷本の三人が石棺を開いて、遺骨全部を集めて布片に包み、新しいカメに収めて、現在の隔離病舎東方の丘の、石碑の下に安置したと云う。此の時頭蓋骨は見当たらなかった」とある。

頭蓋骨のない遺骨が古墳の石棺から見つかったのだ。まさに鹿介の遺骨は300年以上も古墳時代の石棺に間借りして眠っていた。それを移し直して、明治35年(1902)8月、地元有志の協力のもとに、高梁市落合町阿部に胴塚が白壁の塀に囲まれて建立されたのだった。胴塚の正面には、観泉寺の位牌と同じ「幸盛院殿鹿山中的大居士」の戒名が刻まれている。

ところで鹿介が葬られた石棺の近くに吉備将様を祀る小さな神社がある。かつて石棺に葬られた人骨が亡霊になって現われたことがあった。それは古代人だったとも戦国の侍だったともいわれ、鹿介の亡霊だったのかもしれなかった。村人たちはその霊を哀れみ、吉備将様として祀った。

また明治にできた胴塚はその墓の欠けらを一晩懐に入れて寝ると、瘧(おこり・熱病)が治るといわれていたという。
 

※本記事は、楠戸義昭著『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
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