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十河信二の決断~満鉄特急「あじあ」と新幹線誕生秘話

2018年04月14日 公開

歴史街道編集部

満鉄特急あじあ号
満鉄特急あじあ号
 

今日は何の日 明治17年4月14日
十河信二が生まれる

十河信二の生い立ち

明治17年(1884)4月14日、十河信二が生まれました。満鉄理事として特急「あじあ」を走らせ、戦後は新幹線建設に賭けて、「新幹線の父」として知られます。 

十河は明治17年、愛媛県新居郡中村(現在の新居浜市)に十河鍋作の次男として生まれました。明治41年(1909)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、鉄道院に入庁します。当時の鉄道院総裁は後藤新平でした。後藤は線路を標準軌(広軌)に改めることを唱えており、十河もその薫陶を受けます。

鉄道視察のために1年間のアメリカ留学を経て、鉄道院経理局会計課長に就任。 大正12年(1923)に関東大震災が起こると、復興のための帝都復興院に出向、院長を兼ねていた内務大臣の後藤新平とともに、復興事業に取り組みました。この辺、後藤との師弟関係ともいうべき結びつきの強さを窺わせます。

ところがその取り組みの最中、土地売買にまつわる贈収賄疑惑に巻き込まれました。裁判の結果は無罪でしたが、退官を余儀なくされます。昭和4年(1929)には師とも仰ぐ後藤新平が急逝し、十河は悲嘆に暮れました。
 

南満鉄理事として特急「あじあ」運行に尽力

昭和5年(1930)、そんな十河を招いたのが、南満洲鉄道株式会社(満鉄)の総裁・仙石貢です。十河の辣腕ぶりを知る仙石は、十河に大陸で活躍する舞台を用意したのです。かくして満鉄に入社した十河は、46歳にして理事となりました。

満洲で十河は、興中公司の社長や林銑十郎内閣組閣参謀を途中まで務めるなど、大いに活躍。さらに満鉄において、同じく満鉄理事の島安次郎らとともに特急「あじあ」の運行に直接関わります。日本国内で実現しなかった標準軌を採用した満鉄で、「あじあ」は最高速度130km/hを記録。大連-新京間701kmを約8時間30分で結びました。国内の列車を遥かに凌ぐ「あじあ」の成功体験は、後の新幹線にも生きることになります。

しかしその後、十河は関東軍の方針とそりが合わなくなり、昭和13年(1938)に満鉄を辞職。浪人のまま戦後を迎えました。
 

国鉄総裁就任と新幹線計画

戦後、日本国有鉄道(国鉄)では大事故が立て続けに起こり、国民の信用を失っていました。それを案じる十河に対し、国鉄総裁になってはどうかという話が持ち上がりますが、十河は年齢と健康を理由に固辞します。ところが同郷の国会議員・三木武吉が「君は赤紙を突きつけられても祖国の難に赴くことを躊躇する不忠者か」と説得、十河は71歳にして第4代国鉄総裁就任を引き受けました。高齢の十河に対し「博物館から引っ張り出された古機関車」と揶揄する声も上がりましたが、十河は「鉄路を枕に討死を覚悟」という挨拶をして、まさに機関車の如く走り始めます。その目指すところは、広軌高速鉄道「新幹線」の建設でした。

十河の新幹線計画を「老総裁の思いつき」と最初は誰も相手にしませんでしたが、次第に十河が本気であること、建設費用が巨額となることから運輸族議員たちが迷惑がり、十河の総裁降ろしを始めます。また国民や沿線住民も冷ややかでした。東海道新幹線は駅の数が少なく、地元に停まらない新幹線など不要という声が多かったのです。
 

新幹線は必ず国民のためになる

しかし、十河はめげません。日本の経済発展のために新幹線は不可欠であり、「新幹線は必ず国民のためになる」という強固な信念を抱いていたのです。 四面楚歌の中で十河は、計画実現に協力してくれる者、理解者で独立部隊を作り、独断専行で建設を推進していきます。

その中の一人に、満鉄理事だった島安次郎の息子・島秀雄がいました。 ある時、建設費用を計算した島が十河に「総額3千億円余り」と告げると、十河は「高過ぎてとても国会を通らない。狭軌にしろといわれてしまうぞ。半分にするしかない」と答えます。驚いた島が「それで工事ができますか?」と尋ねると、「大丈夫だ。俺に任せろ」と言い切りました。たとえ政府を騙してでも、建設を認めさせる覚悟だったのです。島は「大変な度胸だ。えらいことを平然とやってのけるすごい人だ」と後に述懐しています。

結果的に国鉄内の予算では間に合わず、十河は建設費の増額を政府に頼み込みました。時の池田勇人首相は「新幹線はなんとしてもオリンピックの開幕に間に合わせろ」と厳命し、工事完成を支援します。その結果、昭和39年(1964)10月、東海道新幹線は晴れて開通を迎えました。しかし、出発式の場に十河の姿はありません。「新幹線予算不足」の責任を問われ、前年に退任していたのです。

十河は昭和56年(1981)に肺炎で死去。享年97。その遺志から新幹線で遺体は郷里に送られました。車掌の計らいでグリーン車の一角に遺体と遺影が安置され、各停車駅では待ち受けた多くの鉄道員が敬礼して見送ったといいます。



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