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臥薪嘗胆!三国干渉とは

2018年04月23日 公開
2019年03月27日 更新

4月23日 This Day in History

遼東半島と朝鮮半島の地図
 

今日は何の日 明治28年4月23日
ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉により、遼東半島を清に返還

明治28年(1895)4月23日、三国干渉が行なわれました。ロシア、フランス、ドイツが日本に対して行なった勧告で、遼東半島を清に返還するよう求めたものです。

4月17日、日本と清国が下関条約に調印しました。その骨子は
1)朝鮮の独立を確認
2)遼東半島と台湾及び澎湖島の割譲
3)償金2億両の支払い
などです。

これに対して6日後の23日、ロシア、フランス、ドイツが横槍を入れます。

「日本による遼東半島の領有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立も有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。従って、半島領有の放棄を勧告し、誠実な友好の意を表する」

首謀者はもちろんロシアで、日本が拒めば一戦も辞さぬ強硬姿勢でした。誠実な友好の意どころか恫喝です。 ロシアの狙いは遼東半島の旅順港で、不凍港の確保にありました。

ドイツが加わったのは、ロシアの目を東(満洲)に向けさせて、自国の脅威を取り除くためです。フランスは、ロシアとドイツの緊張緩和が自国の安泰につながるという判断からでした。

また三国干渉には清国も一役買っており、講和会議の最中から日本側の情報をロシアやイギリスにリークし、わざと列強の干渉を招いて、日本を押さえ込もうとした節があるともいわれます。

いずれにせよ、ロシア・フランス・ドイツ三国連合軍に、日本の陸海軍では太刀打ちできないことは、誰の目にも明らかでした。5月4日、明治政府は三国干渉に屈し、遼東半島の放棄を決定します。

伊藤博文首相や陸奥宗光外相ら政府首脳は、列強の干渉があることはある程度予想しており、多少の譲歩はやむを得ないと考えていました。しかし日本の国民は、政府が干渉を受け入れたことを知ると、無念の思いとともに強烈な不満を抱いたといわれます。泣いて悔しがる小学生もいたといわれます。

そんな状況の中で、明治天皇は「遼東還付の詔」を出されました。天皇が国民に語りかけたのは、およそ次のような内容であったといわれます。

「日本が清国と戦うことになったのは東洋平和のためであり、露仏独の三国も東洋の平和を考えての忠告だという。また、時局を難しくし、国民生活を苦しくし、国運伸張を妨げることは望ましくない。 そこで政府に遼東半島の還付を命じた。国民は平和を図るという意図を理解し、時勢を大局から深くとらえ、国家の大計を誤まらないようにしてほしい」

これは国民に生じた負の思いをやわらげ、軽挙妄動に走らせないための詔勅であったといえるでしょう。

とはいえ、3年後の明治31年(1898)、ロシアは清国と李鴻章・ロバノフ協定を結んで、遼東半島の旅順・大連をまんまと租借します。強まるロシアの脅威を念頭に置いて、明治政府は軍備拡張に力を注ぎました。清国から得た賠償金はほとんどが軍事費に回されましたが、それだけで足りるはずもなく、増税によってまかなうことになります。

国民は「臥薪嘗胆」という言葉とともに、その負担に耐えていきます。この忍耐とロシアへの強烈な危機感が、やがて日露戦争につながっていくのです。

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