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徳川家継~わずか4歳、歴代最年少将軍の誕生

2018年07月03日 公開

歴史街道編集部

江戸城
 

今日は何の日 宝永6年7月3日
徳川7代将軍家継が生まれる

宝永6年7月3日(1709年8月8日)、徳川7代将軍家継が生まれました。歴代の中でも4歳という最年少の将軍就任で、在職期間は3年、僅か8歳で亡くなりました。もちろん将軍としての実績はありませんが、いろいろ考えさせられるものがあります。

徳川家継は、6代将軍家宣の4男に生まれました。幼名は世良田鍋松。母親は側室で、浅草唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)。父親の家宣は48歳という年齢で将軍位につき、6人の子を儲けますが、家継以外すべて早世しました。

正徳2年(1712)、在職3年足らずで病に倒れた家宣は、さすがにまだ4歳の家継を次期将軍とすべきでないと考えます。

「古来幼君で天下が治まったためしがあろうか。まずは御三家尾張の吉通(よしみち)に将軍を継がせ、鍋松が成人した暁にどうするかは吉通に一任する。もしくは吉通を鍋松の後見とし、政務を執らせる」

という2案を側用人の間部詮房に示しました。しかし尾張の吉通が将軍となれば、当然尾張家の家臣を率いてくるので、家宣側近の間部は追われる恐れがあります。ちょうど甲府から家宣とともに入った間部たちが、5代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保を罷免したのと同じように……。

そこで間部は顧問格の新井白石とも相談の上、鍋松を将軍とし、譜代の臣で補佐することにしたいと家宣に懇願して、認められました。もちろん幕閣内にも異論があり、「もし鍋松君に後継者なきまま万一のことがあれば、どうするのか」と危惧する声が上がりましたが、新井白石は「その時こそ、吉通公を将軍に迎えればよい」と応えたといわれます。

かくして家継は、家宣没後の正徳3年(1713)、将軍宣下を受けて5歳にして7代将軍となりました。 家継は幼いながらも「生来聡明にして、父家宣に似て仁慈の心あり。立居振舞いも閑雅なり」(「徳川實記」)と記録され、利発で心優しい少年であったようです。普段は新井白石より帝王学を学び、政治向きのことは側用人の間部らが主導して、家継の追認を受けるというかたちがとられました。

もっとも家継にとって最も身近な大人は当時48歳の間部であり、間部に対して父親に近い感情を抱いていたともいわれます。間部も、言うべきことは家継に厳しく言ったため、時に家継がぐずると、側近が「間部殿が参りますよ」と言うとおとなしくなったとか。いじらしくもあります。

また家継は7歳の時、霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王と婚約しました。家継の病没のため降嫁は実現しませんでしたが、幼い家継が政治に翻弄されているような、痛々しさも感じられます。

そうした中、ある噂が幕閣や大奥でささやかれ始めました。若く美しい家継の生母・月光院と、いまだ独身の間部の密通です。真偽のほどは定かでなく、恐らく2人には幼い家継についての相談もあったことでしょう。しかしそれが悪い噂となるのは、それだけ大奥内における月光院の権勢が大きくなっていることの裏返しでした。家継将軍就任翌年の正徳4年(1714)に、大奥を揺るがす一代スキャンダル「絵島生島事件」が起こるのも、月光院の右腕である絵島を陥れ、月光院の勢力を殺ごうとする反対派が仕組んだ可能性が高いといえます。

こうしたスキャンダルや醜い政治闘争を、幼い家継はうすうす感じとっていたのでしょうか。正徳6年、風邪をこじらせた家継は、あっけなく短い生涯を閉じます。享年8。

家継の死により、2代将軍秀忠の系統は断絶することとなりました。家継のあっけない死。「もういいように利用されるのは御免だよ」と言いたかったのかもしれません。


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