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毛利勝永、大坂夏の陣で奮戦~惜しいかな後世、真田を云いて、毛利を云わず

2018年05月08日 公開
2019年04月24日 更新

5月8日 This Day in History


 

今日は何の日 慶長20年5月8日
大坂夏の陣で毛利勝永が自刃

慶長20年5月8日(1615年6月4日)、大坂夏の陣で毛利勝永が自刃しました。「惜しいかな後世、真田を云いて、毛利を云わず」と江戸時代に評されるほど、夏の陣では真田信繁に劣らぬ活躍をし、豊臣秀頼の介錯を務めたことでも知られます。
 

毛利勝永、秀吉に仕える

毛利勝永は天正5年(1577)、羽柴秀吉の古参の家臣・毛利勝信(森吉成)の息子として尾張に生まれました。別名、吉政。 天正15年(1587)、父・勝信は豊前小倉6万石(10万石とも)を領し、11歳の勝永も豊前国内に1万石(4万石)を与えられたといいます。またこの頃、秀吉の命で森姓を毛利姓に改めました。

慶長2年(1597)、慶長の役に出陣。蔚山(ウルサン)城救援で武功を上げます。慶長5年(1600)の関ケ原合戦では西軍に属し、伏見城攻め、伊勢安濃津城攻めに参加。 関ケ原本戦時には南宮山にいましたが、中国の毛利軍に組み込まれており、戦いに参加できなかったといわれます。時に勝永、24歳。

関ケ原後、改易され、父親とともに土佐の山内一豊に預けられました。改易だけで済んだのは、かつて秀吉の命で徳川家康が伏見城を普請した折、木材不足で窮していたところ、毛利勝信が助けた恩義があったためともいいます。山内家は毛利父子を手厚く遇し、勝永の弟には山内姓まで与えられました。
 

土佐を脱し、大坂城へ

それから14年。すでに父の勝信は没し、38歳となった勝永のもとに大坂方の使者が密かに訪れ、入城を要請します。勝永は「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかしわしが大坂方に与すれば、残ったお前たちに難儀がかかろう」と妻のことを案じました。 すると妻は「君の御為に働くはわが家の名誉。残る者の心配をされるのであれば、私どもはこの島の波に沈み、一命を絶ちましょう」と夫を激励します。 妻に後押しされた勝永は、大坂の陣に出陣する山内忠義に助力するためと偽って、息子の勝家とともに土佐を脱し、大坂城に入城を果たしました。城の者たちは、どうやって脱出したのかと、驚いたと伝わります。

勝永は大坂城の諸将の信望を得て、後藤又兵衛、真田幸村(信繁)、長宗我部盛親、明石掃部と並ぶ五人衆の一人に数えられました。しかし冬の陣では、ほとんど出番がありません。しかし冬の陣の和睦はかりそめのものに過ぎず、大坂城は堀が埋められて裸城となったところで、慶長20年(1615)の夏の陣を迎えます。
 

大坂夏の陣での奮戦と最期

5月6日、真田幸村とともに道明寺方面に向かった毛利勝永は、濃霧に遮られて進軍が遅れ、先発していた後藤又兵衛、薄田兼相らが関東方に討ち取られる事態となりました。

真田信繁が「濃霧のためにみすみす又兵衛殿らを死なせてしまったことを恥ずかしく思う。豊臣家の御運もここに尽きたか」と自責の念にかられると、勝永は「ここで死んでも益はなし。秀頼公の馬前で華々しく散りましょうぞ」と励まし、大坂城に撤退します。

そして5月7日、天王寺・岡山の決戦。勝永は凄まじい奮戦を見せます。開戦直後、正面の本多忠朝隊を打ち破り、忠朝を討ち取ると、関東方第二陣の榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠恒らを次々と蹴散らし、その退却兵が関東方第三陣を大きく動揺させました。

この間隙を衝いて、真田信繁率いる赤備えの真田隊が家康本陣目掛けて一文字に突撃。家康を恐慌状態に陥らせ、猛攻の末にあと一歩で討ち取るところまで追い詰めます。しかし、わずかに及ばす、信繁は討死を遂げました。

真田隊壊滅の報せに、勝永は「これまで」と大坂城内に退却を始めます。そこを井伊直孝や細川忠興らの隊が追いすがりますが、見事に敵をあしらい、城内に戻りました。この一連の勝永の戦ぶりに、歴戦の加藤嘉明と黒田長政が感嘆したといわれます。

5月8日。混乱の中、大坂城天守にも火が回り、山里丸糒蔵に退避していた豊臣秀頼や淀殿にも最期の時が訪れます。秀頼の自刃の際、勝永が介錯を務めました。真田幸村の長男・大助幸昌も秀頼と運命を共にします。

すべてを見届けた勝永は、息子・勝家とともに静かに自刃しました。享年、39。ちなみにミクロネシア連邦の元大統領・エマニュエル・マニー・モリ氏は、勝永の子孫であるといわれます。

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