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最上、上杉、伊達。みちのく関ケ原、最終的な勝利者は?

2018年06月06日 公開

歴史街道編集部

「みちのく関ケ原」は、最上のひとり勝ちで終わった。しかし、そののちの太平の世で、最上、上杉、伊達の三家はどうなったのだろう。
 

最上 お家騒動の果てに

24万石だった最上家は、関ケ原の戦いの後、加増されて57万石の大大名となった。

最上義光は晩年、家康の近習だった二男家親に家督を譲るため、嫡男義康を謀殺した。結果、義光の死後に藩主となった家親だったが、家康が死んだ直後、若くして不可解な死を遂げる。そして、家親の跡を継いだのは、家親の嫡子だが、まだ幼い義俊だった。

ここで、最上家中において家臣同士の権力争いが勃発。家親毒殺の噂などがからみ、義俊の代わりに義光の四男山野辺義忠を推す動きが現われる。

これに対して、幕府は厳しい措置を取った。

最上家の領地はすべて召し上げられ、義俊には、近江三河に1万石のみが与えられた。

義俊が寛永8年(1631)に夭折すると、その子義智は5千石にまで知行を減らされて、旗本に格落ち。その後、二度と大名には戻れなかった。

一連のお家騒動は、「最上騒動」と呼ばれるが、最上家の栄華は儚くも終わりを告げたのである。
 

上杉 藩領が激減するも…

徳川家康に敵対したことで、上杉家は会津120万石から米沢30万石へと、石高を四分の一に減らされた。

寛文4年(1664)、景勝の孫にあたる綱勝が、子供の無いまま急死。上杉家は断絶の危機を迎えたが、三代将軍家光の弟で、綱勝の舅にあたる保科正之の尽力により、綱勝の甥・綱憲が綱勝に養子入りする形で存続。しかし、石高は15万石と半分に減らされてしまう。

一時、財政が破綻しかけるものの、第9代藩主・上杉鷹山が改革を行なうなどして、米沢の地を治め続けた。

戊辰戦争の際は、会津藩の保科家への恩義のため、奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と相対した。幕末期においても、上杉の「義」は生き続けていたのだろう。
 

伊達 三家の中で最大の大名に

仙台の伊達家は、「百万石のお墨付き」を反故にされたが、仙台62万石を領した。

その後、政宗の庶長子・秀宗を祖とする伊予国宇和島藩、政宗の十男宗勝が祖となる一関藩などの分家ができている。

ところが、第3代藩主・綱宗が幕府から、その放蕩ぶりを咎められて隠居。跡を継いだ2歳の嫡男綱村の後見人となった、宗勝の専横ぶりに不平が噴出する。幕府に訴える騒ぎとなり、関係者の取り調べ中に刃傷事件が発生してしまう。いわゆる「伊達騒動」である。

お家騒動の余波で一関藩は改易となったが、本家は財政難に苦しむものの、幕末まで大大名として生き残った。

結果だけを見れば、最上、上杉、伊達の三家における最終的な勝利者は、伊達家だったのかもしれない。


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