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致遠館と弘道館~岩倉具視が息子を託した佐賀の藩校

2018年07月11日 公開
2023年03月31日 更新

『歴史街道』編集部

岩倉具視と鍋島直正
岩倉具視(左)と鍋島直正(右)
国立国会図書館蔵
 

致遠館の英学と弘道館の漢学

慶応4年(1868)正月、岩倉具視の二男・具定は東山道鎮撫総督に、三男・具経は同副総督に任じられ、戊辰戦争を戦った。

江戸開城が成ると、同年5月に、それぞれ、奥羽征討白河口総督と同副総督に任じられる。

ところが、翌6月、2人は学齢期にあるとして呼び戻された。そして、佐賀藩に派遣される。岩倉具視が、佐賀藩の教育が日本一だと認識していたからだ。

岩倉具視が鍋島閑叟(直正)に、子供たちを佐賀藩の藩校で学ばせたいと伝えたのに対して、閑叟は、「田舎侍の同宿する粗野な荒破屋(あばらや)に京洛の貴紳が従学されるとは、甚だ恐縮に存じます」と断わりの書簡を送っている。

しかし、その時にはすでに、具定と具経は佐賀へと向かっていた。やむなく閑叟は、長崎に設立した英学を学ぶ藩校・致遠館へ2人を送り、フルベッキに学ばせることにした。

岩倉具視としても、具定と具経には洋学を学ばせたいという意向があったという。

少し遅れて、養嫡子・具綱と長男・具義(明治2年〈1869〉に南岩倉家を興す)も佐賀に到着。父親は、この2人には漢学を学ばせたいと考えていたようだ。佐賀に留まり、弘道館西側の石火矢方舎宅を改装して宿舎として、藩校から派遣された教諭から学問を学んだ。

この時、4人の世話をしたのが、佐賀藩士・久米邦武だった。具定と具経は、明治3年(1870)に米国のラトガース大学に留学するが、その斡旋も久米が行なった。

久米が岩倉使節団に同行し、『米欧回覧実記』をまとめたのは、こうした経緯があったためだと考えられる。

佐賀藩の藩校の名声が高かった大きな要因としては、致遠館での英学教育の他、弘道館の生徒たちがディベートに優れていたこともある。自由な気風の中、生徒同士、激しく議論を戦わせていた。

江戸の昌平坂学問所に遊学しても、弘道館出身者は負け知らずで、唯一の好敵手は会津の日新館出身者だったといわれている。

岩倉具定
岩倉具定
岩倉具視の第三子。1817年家督を継ぎ公爵。帝室制度取調委員、貴族院議員、学習院長、枢密顧問官、宮内大臣等を歴任。

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