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西郷下野、それでも政府に残った薩摩人たち

2018年07月10日 公開
2023年03月31日 更新

『歴史街道』編集部

伊地知正治
伊地知正治(国立国会図書館蔵、以下同)
 

明治6年、西郷隆盛下野……

明治6年(1873)、西郷隆盛が下野した際、多くの薩摩出身者が野に下った。桐野利秋やその従兄弟・別府晋介など、西郷を慕っていた若者が多かったが、その一方で、明治政府に残った者たちもいた。

では、彼らが西郷を慕っていなかったか、憎んでいたかといえば、決してそうではない。むしろ逆だったようだ。

幕末期、西郷がリーダーだった精忠組の主要メンバーにも、共に下野しなかった者もいた。軍略家として戊辰戦争で活躍した、伊地知正治である。

左院議長の後藤象二郎が西郷と共に下野したため、副議長の伊地知は議長に就任、その後は修史館総裁などを務めた。西南戦争が起こると、早々に西郷軍の敗北を予見していたという。

のちに、伊地知は故郷に帰り、産業を盛んにするよう知事にすすめるなど、郷土の復興のために力を尽くしている。

川路利良
川路利良

多くの邏卒(らそつ/警察官)が西郷と共に鹿児島に帰るなか、そのトップである川路利良も、政府に残った薩摩人の一人だ。

西郷の推薦で渡欧してフランス警察を視察、明治7年(1874)に警視庁を創設した川路は、西南戦争のきっかけを作った人物とも言われている。

明治10年(1877)、西郷らの動向を探るために、川路は薩摩出身の警察官を鹿児島へと向かわせたが、それを知った桐野らは、政府が西郷暗殺を計画していると激昂。結果、西南戦争へと突入する。

川路は、渡欧を後押ししてくれた西郷に対して恩義を感じていたからか、「誠に忍びないが、あまねく警察に献身する」と言って、西郷軍と戦ったという。

その西南戦争において、西郷軍と直接、対峙することになった薩摩人もいる。樺山資紀と黒田清隆である。

樺山資紀
樺山資紀

樺山は、明治7年の台湾出兵での功績により、中佐に昇格。西南戦争が勃発すると、熊本鎮台参謀長として、防戦にあたった。

西郷は、「熊本には樺山資紀あり。肥境(肥後=熊本との境)に我が軍進まば、一、二の台兵(鎮台兵大隊)は我に帰すべし」と語っている。つまり、敵軍に同郷の樺山がいることから、自分たちが攻めれば寝返る兵もいると、楽観視していた。

しかし、熊本鎮台守備軍は徹底抗戦の姿勢を見せる。この熊本城を落とせなかったことが、西郷軍にとっては大きな痛手となったのである。

西郷自決後、樺山は率先して、上野の西郷隆盛像の建設に尽力した。最後は敵味方に分かれて争うことになったが、西郷の名誉回復のために活動し続けた。

黒田清隆
黒田清隆

黒田は、陸軍中将として西南戦争に参戦した。熊本南方から上陸する衝背軍の指揮を任され、西郷軍に囲まれていた熊本城解放に成功した。しかし、黒田は熊本城奪還直後、自らの辞任を願い出て、戦場を去っている。

西郷と大久保利通亡き後、黒田は政府に残る薩摩閥重鎮となり、明治21年(1888)、伊藤博文の後を受けて第2代内閣総理大臣に就任する。

また西郷の血縁においても、明治政府に残る選択をした者もいる。西郷の弟・西郷従道と、従兄弟・大山巌である。

西郷従道
西郷従道

明治7年に中将へと昇格した従道は、征台総督として台湾へ出兵。西南戦争時は、鹿児島に向かわず、苦しみに耐えるかのように東京に留まって、陸軍卿代理としての立場を全うした。

西郷亡き後は、海軍大臣や内務大臣を歴任し、現在の海軍の礎を作る。明治後半には首相候補としてたびたび名前が挙がるが、兄が賊軍となったことから、頑なに断っていたという。

大山巌
大山巌

大山巌は、明治6年の政変時、軍事視察のため渡欧していた。

翌年に帰国すると、西郷を政権に復帰させるため、説得しようと鹿児島まで赴くが、あえなく失敗。西南戦争が始まると、政府軍の指揮官として西郷軍の鎮圧にあたった。

その後、初代陸軍大臣に就任、日清・日露戦争でも活躍した。

しかし兄のように慕っていた西郷を討った自責からか、二度と故郷・鹿児島の地に足を踏み入れることはなかったという。

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