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朝鮮戦争の「その後」~知っているようで知らない朝鮮半島の事件史

2018年07月30日 公開
2018年07月30日 更新

荒山徹(作家)

南の軍部独裁政治、北の工作員

朴正煕の後を襲ったのは、ベトナムで勇名を馳せた全斗煥(チョン・ドゥファン)である。

軍部の実権を掌握した全斗煥一派は、翌80年(昭和55年)5月、戒厳令を全国に拡大する。金大中らが逮捕され、金泳三(キム・ヨンサム)は自宅軟禁、出版、放送は事前検閲を余儀なくされ、言論の自由が再び死んだ。

朴正煕の横死で、ようやく民主化が到来するかと悦んだのも束の間、またも軍部の強権政治、暗黒時代が到来しようとしている。そんなものは朴正煕時代の延長でしかない。

李承晩を追放した時のように人々は街頭に飛び出しデモ活動を繰り広げた。しかし、その声は戒厳令によって押し潰され、沈黙させられた。

――全羅南道(チョルラナムド)光州の学生・市民をのぞいては。

光州は抵抗の都市である。日本統治下の1929年(昭和4年)、日本人学生の横暴に抗して光州の朝鮮人学生が敢然と立ち上がり、戒厳令が布かれるまでの事態に発展した。

51年後の5月、全斗煥の戒厳司令部は光州に空挺旅団の二個大隊を急派、学生運動の封じ込めを図る。

事態はエスカレートの一途をたどった。空挺部隊の軍人たちと学生・市民との間で内戦と呼ぶにふさわしい戦闘が展開された。韓国は徴兵制の国だ。軍役を経験した成人男子はいずれも火器の取り扱い、軍事行動に習熟している。もはや彼らは市民軍といっても過言ではなかった。

51年前と同じく光州は軍によって完全に閉鎖され、交通、通信のすべてが遮断された。陸の孤島となった光州での内戦は一週間に及んだ。

次第に追いつめられた市民軍は道庁に立てこもり、最後の抵抗を試みる。だが戦闘ヘリの援護を受けた空挺部隊の敵ではなく、勝利は軍部がもぎ取った。民間人の死者168人、負傷者4782人、行方不明者406人という数字が、内戦の規模の大きさと悲惨さを物語って余りある。

この頃の日本社会も大いに揺れていたが、それはモスクワ五輪に参加すべきか否かをめぐってのことだった。

全斗煥は晴れて大統領に就任。朴正煕時代と変わらぬ軍部独裁政治が継続される。

このときもまた、北が動いた。

83年(昭和58年)10月、金日成はビルマ(現ミャンマー)訪問中の全斗煥を狙って暗殺計画を立案、使命を帯びてインドシナ半島に潜入した赤い工作員たちは、首都ラングーン(現ヤンゴン)の聖地ア・ウン・サン廟に爆弾を仕掛けた。

爆発で副総理、外相をはじめ随行員17人が死亡、14人が負傷したが、予定時刻に遅れた全斗煥は無事だった。女工作員金賢姫(キム・ヒョンヒ)が日本人を装っていたことで知られる大韓航空機爆破事件は、その4年後のことである。

あの手この手の北の謀略は、しかし奏功せず、結局のところ全斗煥にとどめを刺したのは、南の学生・市民たちであった。ソウル五輪を1年後に控えた87年(昭和62年)6月、デモが全国規模で十数日にわたって繰り広げられた。

さしもの軍事独裁政権も屈服せざるを得ず、敗北宣言ともいうべき「六・二九民主化宣言」を発表。宣言には、大統領直接選挙制などの改憲、公正な選挙・言論の自由の保障、基本的人権の尊重、地方自治制の実施、金大中ら政治犯の釈放・復権などが盛り込まれていた。

ここに、朴正煕のクーデタに始まる軍部の独裁政治は終わりを告げ、韓国は新生するのである。これを成し遂げた国民的な運動は、「六月民主抗争」とも呼ばれる。

以後の韓国の正統性あるいは存立理由は、「民主化」となった。反軍部、すなわち反・反共の色彩を帯びた民主化ではあるが。
 

経済発展、核保有国、そして…

以後の韓国の大統領は、全斗煥の盟友だった盧泰愚(ノ・テウ)を経て、金泳三、金大中、盧武鉉(ノ・ムヒョン)、李明博(イ・ミョンバク)、朴槿恵(パク・クネ)と続き、今の文在寅(ムン・ジェイン)に至る。一方、北に目をやれば、金日成の死去は94年(平成6年)のこと、後を継いだ息子の金正日(キム・ジョンイル)は、世紀が変わって2011年(平成23年)にこの世を去り、目下は三代目の金正恩(キム・ジョンウン)が最高指導者の地位にある。

両国の間には時に波風が立ち騒ぎ、「ソウル火の海」発言や、黄海上の銃撃戦、韓国哨戒艦天安(チョナン)の沈没、延坪島(ヨンピョンド)砲撃事件などがあったものの、大事に至ることなく推移しているのは周知の通り。

韓国は目覚ましい経済発展を遂げ、かたや北朝鮮は核保有国となって、かねての目論見通りアメリカを交渉のテーブルに着かせることに成功しつつある。

さて、正統性を争う南北の対決は、この後どのように展開してゆくか。勝利をおさめるのは果たしてどちらなのか。

韓国の大統領はきまって悲惨な末路をたどる、などとまことしやかに言われる。

確かに李承晩は亡命して異国で客死、朴正煕は部下に射殺され、全斗煥と盧泰愚は逮捕されて獄に繋がれた。検察捜査の手が伸びた盧武鉉は自死を選択。李明博、朴槿恵は目下容疑者であり受刑者である。

だが仔細に見れば、金大中は大往生を遂げている。金泳三にしても息子が逮捕されたものの自身は安泰で、かつてのライバル金大中の後を追うように6年後に病死した。彼もまた安らかな死を迎えたといっていいだろう。

自殺を選んだ盧武鉉は、まさにそれがゆえに死後の人気をうなぎ登りに恢復し、今や聖人化神格化された感すらある。悲惨な末路をたどったというのは、いずれも保守派の大統領に限っての話なのだ。

これは何を暗示するか。

盧武鉉の後を襲った保守派の李明博、朴槿恵が「獄中の人」となった今、大統領府の主人は盧武鉉の盟友文在寅である。その文在寅は、さる四月、北の金正恩と会談したばかりだ。

上海臨時政府を継承するという正統性を早々と失った南朝は、次に反共、そして民主化(反・反共)と存立理由を変えて漂流するも、おぼろげながらその針路を北に向けつつあるようだ。

目指す港は核保有国の北朝鮮――。

南北の合一は、いつ、どのような形で成就するのだろう。歴史的に見れば、明が元を逐ったのを唯一無二の例外として、東アジアで常に勝利を収めてきたのは北朝である。

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