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井伊直弼、将軍へのお目見得で涙した理由

2018年08月17日 公開

歴史街道編集部

井伊直弼

弘化3年(1845)2月18日、世継ぎとなった井伊直弼は、当主の直亮と共に江戸城へ登城し、初めて12代将軍・徳川家慶へお目見得した。

この時の様子について直弼は、彦根藩士・犬塚外記宛ての書状で、以下のように綴った。

「将軍からご懇ろな上意を蒙り、ありがたい次第です」

続いて、次期藩主としての初めての仕事をなんとか務めることができ、重荷をおろした心持ちで安心したと伝えている。

さらに、手紙の最後には、

「このような供たちを召し連れるようになったこと、誠に不思議に存ずるほどのこと、実に御高恩は身に余り、駕籠の中で落涙に及びました。心中を察していただきたい」

とある。それまで藩主の跡継ぎになることなど思いもしなかった自分が、お供をつれて、将軍にお目通りができるということが不思議で仕方がなく、感激のあまり、つい涙がこぼれたというのだ。

部屋住みとして一生を過ごすことになっていた自分が、将軍のために働くことができる。その事実を登城の際に実感し、思わず感極まるものがあったのだろう。

常に冷静で、物事を理詰めで考える井伊直弼にしては、珍しく人間味あふれるエピソードだが、それだけ徳川幕府のこと、そして井伊家のことを考えていた証とも言える。

阿部正弘が老中の首座だった頃、13代将軍・徳川家定には政治の判断能力がないとされていた。そのため、将軍にお伺いを立てることなく日米和親条約を結んだ。

しかし、直弼が大老に就任すると、積極的に将軍にお伺いを立てるようになる。

直弼が、家定に呼ばれたときのこと。天下のことを憂えている家定と話を交わした直弼は、賢明で思いやりに満ちた将軍であると気づくのである。

それ以降、意見を述べるようになった家定の指摘に、時に老中たちも舌を巻いたという。

幕藩体制を守るために力の限りを尽くし、兇刃に斃れた井伊直弼――。

将軍・家慶に初めて会ったときの感激、そしてその家定という「人物」を知ったことが、彼を突き動かす原動力になったのかもしれない。



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