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太原雪斎~ 坊主頭にはちまきをし、戦の指揮をとった、今川義元のナンバー2

2018年10月01日 公開

童門冬ニ(作家)

臨済寺
臨済寺(静岡市)

駿河の戦国大名・今川家の菩提寺で太原雪斎が中興。今川館(現在の駿府城)北西の賤機山麓に位置する。徳川家康も竹千代時代にここで学んだ。
 

今川義元の後見人となる

太原雪斎は、今川義元が今川家の当主になるときに、ずいぶんと力を尽くした。

義元の父親は、今川氏親といった。義元は三男だった。子供のときからお坊さんになるつもりで、寺に入って修行していた。ところが、大永6年(1526)に氏親が56歳で死んだ。跡を継いだのは、長男の氏輝という人物だった。まだ14歳だった。年が若いだけでなく、この氏輝は子供のときから体が弱く、いつも病気をしていた。そのために、10年後の天文5年(1536)4月17日に死んでしまった。相続人が問題になった。このとき、氏輝は、太原雪斎を呼んだ。

「よほどわたしは前世で悪いことをしたのだろう。最後まで病気がちだった。いま死ぬのは天命とあきらめるが、心配なのは今川家の跡のことだ。いったい、だれに跡を継がせたらいいだろう?」

ときいた。氏輝には子供がいなかった。雪斎はこう答えた。

「私の考えでは、いまお寺に入っている承芳様(義元のこと)が一番よろしいと思います」

これをきくと、氏輝はパッと顔を輝かせた。

「あなたもそう思うか。わたしもそう思っている。では承芳を相続人とするから、彼の後見人になって、面倒を見てやってほしい」

そういって、氏輝は死んだ。

「承知しました」

雪斎は氏輝にそう誓った。そして、遺言によって義元が還俗して、今川家の相続人になった。

しかし、義元は三男坊だから、上にまだ次男がいた。この次男がこの決定を不満に思い、反乱を起こした。しかし、雪斎はその前から、じっとこの次男の動きを凝視していた。そこで次男が反乱を起こすと同時に、今川家の家臣団を率いて次男軍を急襲し、全滅させてしまった。だから雪斎は、はじめから血なまぐさいブレーンであったのである。
 

坊主が戦の指揮をする

こうして流血の中からナンバー1のポストを得た義元であったが、彼自身は根っからの風流人だった。せっかく戦国時代という、その気があればのし上がれる時代に生まれていながら、今川義元にはそんな野望はまったくなかった。彼は、風流一途に生き抜いた。詩をつくったり、茶の湯に熱中したり、あるいは蹴鞠などに興じていた。それも都から次々とお公家様を呼んでは、都ではやっている新しい流行にうつつを抜かしていたのである。雪斎は脇にいて心配した。そのころの雪斎は、とにかく「義元様をナンバー1のポストにつけた人」として、今川家の人々から一目置かれていた。したがって、お坊さんでありながら、今川家の重役陣を押さえて、雪斎は実質的にナンバー2のポストについていたのである。

「こんなことでは、今川家はいったいどうなるのだ? それでなくても三河の松平や尾張の織田が、駿河国をうかがっているのに」

と雪斎はギリギリと歯がみした。そこで、時間を見つけては義元のところに行って、

「少しは軍学を勉強してください」

と、強制するようにして中国の軍学書を教えた。しかし、義元は身を入れなかった。軍学を学ぶよりも、和歌をつくったり、蹴鞠をしているほうが楽しかったからである。そして、そういうみやびな生活をしていただけでなく、彼自身が武士の姿を捨てて、お公家様のような格好をしていた。ピラピラする着物を着て、眉を剃り落とし、歯を黒く染めるというようなことをしていたのである。そうなると雪斎は、死んだ氏輝に対する責任をよけい感じた。

(自分が後見人でありながら、当主がこんなざまでは、亡くなった氏輝様にも申しわけない)

と思ったのである。

が、いかんせん、本人義元がその気にならないのだから仕方がない。結局、義元に代わって、雪斎は現場に出はじめた。現場に出はじめたというのは、合戦のときの指揮まで雪斎がとりはじめたということである。

このころの今川家の敵は、隣国の松平氏や、さらにその向こうの国の織田氏だけではなく、甲斐の武田氏、相模の北条氏などもいた。遠いところにも近いところにも敵がたくさんいたのだ。

太原雪斎は坊主頭にはちまきをして、鎧を着て、戦場に出はじめた。彼は中国の軍学書によっていろいろな合戦の事例を知っていたから、指揮は的確だった。まず、作戦が確かだった。そのために、太原雪斎が指揮をとると、今川軍は連戦連勝した。今川の家臣団は、すべて太原雪斎を当てにするようになった。そして、風流にうつつを抜かしている今川義元に、次第に背を向けはじめた。

こういう状況の中で、雪斎は決して自己満足していたわけではない。

「これではいけない」

と思っていた。そして、

「いまの状況はあくまでも臨時の姿であって、本来は義元様が先頭に立って指揮をとるようにならなければいけないのだ。しかし、いまのところそれが不可能なので、自分が代わって義元様がなさるべき指揮をとっているのだ」

と自分にいいきかせていた。しかし、雪斎がいくらそう思っても、次々と敵が攻め込んでくるので、今川義元をトップとして戦場に引きずりだす機会はなかなか来なかった。義元が指揮をとると、必ず負けてしまったからである。とくに尾張の織田信秀には、小豆坂でこっぴどい目に遭っていた。一度指揮をとって負け戦になると義元は、

「おれは、戦争の指揮をとるのは嫌だ。おれが指揮をとると、必ず負けてしまう。雪斎さん、すまないが、合戦のときはあなたが私に代わって指揮をとってください」

といいだす始末である。

「そんなことでは駄目ですよ。あなたは今川家の当主ではありませんか」

そのたびに雪斎は叱りつけるのだが、義元にはその気がない。やはり和歌をつくったり、蹴鞠をしているほうが楽しいという。それはそのほうが楽しいに決まっているが、そんなことばかりしていたのでは、組織のトップとしては失格だ。雪斎は情なくなったが、結局は自分が義元の代わりをしなければならないのだ、とあきらめた。坊さん業のほうはそっちのけになってしまった。

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