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三春と土佐の絆が実現させたもう一つの無血開城~戊辰戦争秘話

2018年10月15日 公開

長尾剛(作家)

三春の滝桜

三春滝桜(福島県三春町)…樹齢推定1000年超、日本三大桜に数えられ、天然記念物に指定された名木
 

悪しざまに言われた三春藩だが…

奥羽越列藩同盟を裏切ったとして、悪しざまに言われた三春藩。しかし、そこには小藩ゆえの事情があった。新政府側に心寄せていたにもかかわらず、周囲を列藩同盟側に囲まれていたがゆえ、加盟を余儀なくされていたのだ。そして、成し遂げられた「無血開城」。その裏には、三春藩郷士と土佐藩士の邂逅があった。
 

長尾剛(作家)
昭和37年(1962)、東京都生まれ。東洋大学大学院修了。著書に『話し言葉で読める「西郷南洲翁遺訓」』『30のエピソードですっきりわかる「幕末維新」』『日本外史 幕末のベストセラーを「超」現代語訳で読む』などがある。

 

苦悩する小藩で、奔走する郷士 

「棚倉城が落ちたぞ」

知らせを聞いた三春藩の郷士・河野広中は、静かに天を仰いだ。そして小さくつぶやいた。

「さも、ありなん」

幕末。慶応4年(1868)4月、西郷隆盛と勝海舟の会見によって、江戸城は無血開城を果たした。

薩摩や長州藩勢による新政府軍の次なる目標は、会津藩や庄内藩を追討し、東北諸藩を従えることにあった。これをもってして日本列島の統一を国際社会に知らしめてこそ、この国の新時代の幕開けを宣言できる。

──それが、薩摩や長州の思惑だったのである。

しかし、東北諸藩は必ずしも新政府軍との衝突は望んでいなかった。平和的解決を求め、会津藩と庄内藩の赦免を働きかけるが、新政府はこれを認めなかった。

かくして東北・越後の諸藩は、新政府軍に対抗すべく同年5月、27もの藩が加盟する日本史上まれなる大同盟を結んだ。いわゆる「奥羽越列藩同盟」である。

その同盟の中に、三春藩はあった。

三春藩。

阿武隈山地の中部に位置する小藩である。石高はすべて合わせても5万石。領民の数はわずかに7200。武士階級は約900。

秋田家を藩主とする三春藩は、「尊皇」の志が、ことに強い藩だった。明治天皇を戴き錦旗を掲げる新政府軍に敵対することは、本意ではなかった。

しかし、大藩・会津藩に隣接し、多くの有力東北諸藩に囲まれた小藩の三春藩が、「奥羽越列藩同盟」の加盟を拒否できる道はなかった。三春藩は、幕末の混乱の中で板挟みの状態に苦悩していた。

この三春藩にあって、藩の名誉を守ろうと、必死に活動を続けていたのが河野広中である。

河野広中
河野広中(国立国会図書館蔵)

河野は若くして陽明学(儒学の一流派で、民主主義的な志向の学問)を学び、貧しいながらもさまざまな人々と交流し、これを歓待する豪快で心優しい男だった。当時、新政府軍への帰順を明確にしきれない藩上層部にいらだちを覚える日々を送っていた。

そんな中、新政府軍の一翼を担う土佐藩の先鋭部隊「断金隊」によって、奥羽越列藩同盟の地理的要衝・陸奥国の棚倉藩の居城が、わずか一日で陥落したのだ。

断金隊を指揮下に置いているのは、あの板垣退助である。近代兵器を擁する断金隊の攻撃はすさまじく、城を守る棚倉藩士はわずかに300。あまりにも、その戦力に差があった。棚倉藩は焦土と化した。

「次は、我が三春か」

河野は唇をギュッと噛み締め、意を決した。

「断金隊の板垣と談判する。我が三春の尊皇の志を訴え、新政府軍への帰順を受け入れてもらうのだ。それ以外、殿の名誉と三春の領民を守る手立てはない」

藩論は、いまだ抗戦か帰順かで二分している。河野のこの決意は、下級武士たる郷士の身では、明らかなスタンドプレーである。だが、事は急を要する。小藩・三春の命運がかかっている。

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