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真田信之の末裔に今も伝わる「真田家の家訓」と「伝統のクルミ」

2018年10月19日 公開
2022年02月04日 更新

真田幸光(愛知淑徳大教授/真田信之末裔)

真田幸光氏(真田信之の末裔/愛知淑徳大学教授)

<<国際金融論の専門家である真田幸光氏。愛知淑徳大学の教授を務めつつ、官民問わず多くの顧問やアドバイザー業務、メディア出演、論文・雑誌の寄稿を多数行う。世界各国に独自の情報網を築き、各国の政治経済動向に精通している。

実はこの真田氏、戦国武将・真田家の末裔。真田信之から数えて14代目にあたる。
次男だった祖父の代より分家となり、現在では本家ではないが、今でも真田家とはゆかりが深い。しかも祖母は戦国大名・上杉家の本家の長女だったというから、さらに興味深い。

真田本家に最も近い分家ということもあり、”真田家の教え”や”伝統や伝承”が今に至って受け継がれているという。真田幸光氏に聞いた。>>

※本記事は真田幸光オンラインサロン「経済新聞が伝えない世界情勢の深相~真田が現代の戦国絵図を読む~」内で公開された内容より一部を抜粋・編集したものです。

 

真田家の家訓「死ぬまで生きよ」を伝えられて育った

関ヶ原の合戦以後の、私の祖先の真田信之は松代藩(今の長野県)の藩主となり、その後は真田家が代々藩主を務めました。私の曽祖父(真田幸正)がその真田十万石のその末裔にして真田本家にあたります。伯爵でもあった人でした。曽祖父の次男(幸尚)に嫁いできたのが上杉本家の長女で、私の祖母にあたります。

したがって、私は真田家の末裔にして、真田家と上杉家のハイブリッドでもあります。そんな縁から公益財団法人である米沢上杉文化振興財団の理事も務めております。

そんな家に育った私でしたが、代々伝えられてきた「真田家の家訓」を教えられてきました。

それは「死ぬまで生きよ」というもの。

死ぬまで生きるのは当たり前だ、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。もう少し詳しくお伝えするならば、「生に固執せよ」という意味なのです。生き延びろ、とにかく生き延びろ、ということが家訓として伝えられてきたのです。

この家訓が伝わっている理由は、歴史に詳しい方ならばお分かりになるかもしれません。

天下分け目の関ヶ原の合戦を目前にし、真田家は徳川家康方である東軍につくのか、それとも石田三成方である西軍につくかを思案した結果、父・昌幸と弟・信繁は西軍に、兄・信之(当時は信幸)は東軍につき、どちらが勝利しても真田家を存続させようと苦渋の決断を下し、結果として真田家は断絶せずに今に至るまで家系は紡がれてきました。

この関ヶ原の合戦を生き延びるために真田昌幸がおこなったのは、「情勢収集」「収集情報から分析」「分析から結論を出す」「結論から行動」「行動の結果に責任を取る」ということ。

真田家では、これらをやりきれない者は、「真田の家の人間ではない」と厳しく教えられ、私もそう育てられてきました。

私は今、世界各国のネットワークから情報を収集し、国際情勢を皆様に伝える仕事をしているのは、この真田家の教えが息づいているのだと感じています。

ちなみに、私を含め、現代を生きる人が情報収集をするのでれば、インターネットが欠かせない時代ですが、戦国時代の真田家にはもちろんインターネットなどありません。独自の情報収集網を構築していました。

真田町(現在の長野県上田市)にある、山家神社(やまがじんじゃ)。この神社は、全国各地に山伏を送り出していました。真田昌幸は、その山伏たちの”頭領”のような存在でした。

全国にいる山伏たちが情報収集をします。真田昌幸のもとには、上杉は、徳川は…といった各地の戦国武将の動向が、その山伏の情報網から集められてきていたのです。

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