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機動部隊を生み出した戦略家・小沢治三郎

2018年10月29日 公開

歴史街道編集部


 

空母機動部隊の生みの親

日本海軍は、空母を集中運用する「空母機動部隊」を世界に先駆けて創設し、それをもって、真珠湾攻撃で大戦果を挙げた。この空母機動部隊の生みの親ともいわれるのが、小沢治三郎である。

小沢の経歴は少し変わっている。明治19年(1886)に宮崎県高鍋町に生まれるが、宮崎中学時代に喧嘩沙汰で放校となり、東京の成城中学校に転入。卒業後に鹿児島の第七高等学校に進学するが、中退して海軍兵学校へ進んだのである。

小沢が機動部隊の生みの親ともいわれるのは、昭和15年(1940)、第一航空戦隊司令官だった時に「航空艦隊編成に関する意見」を提出したことによる。

だが小沢自身は、なかなか空母機動部隊を指揮する機会に恵まれなかった。開戦時はマレー作戦に従事し、その後も、海軍人事の序列制のため、ミッドウェー海戦もソロモンでの海戦にも参加することはなかったのである。

そんな小沢が機動部隊を指揮する立場になったのは、日本の劣勢が明白となった昭和19年(1944)3月。同年6月のマリアナ沖海戦で指揮をとることとなる。

この海戦は、マリアナ諸島への侵攻を目指すアメリカ軍を迎え撃つものだった。

アメリカ軍は空母15隻、航空機1500という大戦力を擁し、対する日本は空母9隻、航空機450機という劣勢。

小沢は、圧倒的戦力を有するアメリカ軍に勝つために、アウトレンジ戦法を採用する。つまり、日本の航空機の特長である航続距離の長さを活かし、敵の射程外から先に攻撃を仕掛けようというのである。

ところが、当時のパイロットは練度が不十分で、アウトレンジを実行するだけの技量がなかった。

また、アメリカ軍はレーダー等で日本軍攻撃隊の近接を察知しており、さらにVT信管(目標に命中せずとも近づくだけで爆発する)を組み込んだ対空砲によって、次々と撃墜していく。

結果、日本軍は惨敗。小沢は、辞表を作成するほど責任を痛感する。そんな小沢に、さらなる過酷な命令が下る。

同年10月のレイテ沖海戦で、栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させるために、敵機動部隊をけん制するための囮部隊を務めよというのである。

小沢は作戦通りに、見事に敵機動部隊を釣り上げるが、栗田艦隊が謎の反転をし、作戦は水泡に帰してしまう。しかもこの戦いによって、日本の機動部隊は事実上、消滅してしまう。

昭和20年(1945)5月、小沢は最後の連合艦隊司令長官となるが、すでに海軍として戦うだけの戦力はなかった。しかし、終戦に際しては統率力を発揮し、海軍内の混乱を未然に防ぐことに成功した。

機動部隊創設という先見の明を発揮しつつも、時宜を得なかった小沢。戦後、その死に際して、アメリカの戦史研究家サミュエル・モリソンは、「近代戦にふさわしい科学的リーダーシップをそなえた名提督」との言葉を贈っている。


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