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北条時頼~仁愛・公平・質素倹約を旨とした名君の祖型

2019年01月04日 公開

童門冬ニ(作家)

北条氏家紋
 

祖父・北条泰時の帝王教育

鎌倉幕府5代目の執権・北条時頼は、その後いわゆる名君と呼ばれた人々の祖型といっていえる。政治で示した仁愛、公平、質素倹約などをはじめ、積極的に日本全国を回国行脚して地方の実態を把握したことからも、後の「水戸黄門漫遊記」の原型をかれがすでに実行していたといっていい。

権力の座にありながら、その質素な生活ぶりは数々伝えられている。母の松下禅尼に、障子の切り貼りを教わったり、あるいは突然訪ねてきた客をもてなすのに、大した肴がないので味噌だけで酒を振舞ったという。これは別に誇張ではない。時頼は、祖父の北条泰時にそういうように育てられていた。

祖父の泰時は、「御成敗式目」(「貞永式目」とも呼ばれる)という法律をつくった。これは、地方の地頭・御家人たちの権利を守るためにつくられた法律だ。「道理」と「先例」を土台に置いていた。これによって、地方武士の権利がかなり守られるようになった。

その泰時が時頼たちに告げたのは、「常に東国武士の初心・原点を忘れてはならない」ということであった。昔から「武士は東国に限る」といわれた。なぜ、そういわれたのか。東国武士には当初から強いバックボーンがあった。それは質実剛健と、道理を貫く精神である。泰時はこれを一族の若者たちに求めたのである。

泰時の後の執権職はまず兄の経時が継いだが、病身だったので4年後には弟の時頼に跡を継がせた。執権職になった時頼は、京都大番役の任期を半分に縮めるなどして、武士の経済的負担を軽くする一方、多くの贅沢禁止令を出し、質実剛健の風を守るよう宣言した。
 

北条時頼と青砥藤綱

さて、時頼の時代に限られるわけではないが、この頃、地方武士からの土地をめぐる争いの訴訟が多かった。当時の武士の価値観に「一所懸命」というのがある。現在使われている「一生懸命」の原語だ。「一つ所領に命を懸ける」という、土地至上主義の価値観である。このために、相続時のゴタゴタ、あるいは他人の土地の横領などが始終起こって、幕府への訴えが多かったのだ。同時に、地方の代官の不公正な裁判がこれに輪をかけた。執権・時頼は、これらの訴訟を受けとる度に頭を痛めた。

「祖父・泰時から、道理を貫き公正な扱いをするようにといわれたが、なぜ、諸国でこのような不正が起こるのだろうか?」

素朴にそんな疑問が湧いた。

ある夜、かれは鎌倉の市内を流れ、海に注ぐ滑川のほとりを通った。深夜だというのに、何人もの男がタイマツを持って、しきりに川面を照らしている。何か探しているらしい。男たちを指揮していたのは一人の武士だった。道理と公正さを貫くので、時頼が特に抜擢して引付衆(裁判官)に命じている青砥左衛門尉藤綱であった。近づいた時頼は、タイマツを持った男の一人に聞いた。

「何をしているのだ?」
「銭を探しております」
「銭を?」

聞き返す時頼に、タイマツを持った男はあざ笑うようにこう答えた。

「川に十文の銭を落としました。それなのに、青砥様はわれわれを動員し、多額のタイマツ費を使って川の底を探させているのです。まったくの無駄遣いです。馬鹿馬鹿しいったらありません」

時頼は答えなかった。感動していた。胸の中で、(さすが青砥だ)と思った。

時頼は、最近、青砥藤綱に面目を潰されたばかりであった。それは、時頼の所有する土地の管理人と、ある土豪との間に起こった所有権をめぐっての争いで、引付衆である青砥藤綱は、時頼側の主張を退け、土豪の主張を認めたことだ。早くいえば、執権・時頼の敗訴になった。しかし青砥は、頑として自分は公正であると、この判決に自信を持っていた。時頼はこれを聞いて、青砥の剛直さに感嘆した。その直後に、この銭探しの事件である。

普通に考えれば、川に落とした十文の銭を探すために、その何倍もの費用をかけることは勿体ない話だ。無駄遣いだと思える。が、そうではない。

「たとえ十文といえども、川底に埋もれさせたのでは、天下の通宝をむざむざ失うことになる。いくら費用がかかろうと、拾って再び世に出せば、通宝は役立つ。賃金やタイマツの費用は無駄遣いではない」

青砥はそう主張するにちがいない。青砥の話を聞かなくても時頼には青砥の気持ちがよくわかった。そして、いよいよ青砥に対する信頼感を強めた。

翌日、時頼は青砥藤綱を呼びだした。青砥はこわばった表情をしていた。先日の判決を執権・時頼が不快に思って自分を呼びだしたのではないかと思ったからだ。しかし、時頼の話は違った。

「昨夜、滑川で銭は見つかったか?」

と聞いた。青砥はびっくりして時頼を見かえした。

「見つかりました。動員された部下たちは、落とした銭よりも探す費用が多くかかるとブツブツ文句をいっておりましたが」

「そうか。それはよかった」

うなずいた時頼はこういった。

「先日の判決はおまえのいうことに道理があり、公正だった。わたしのほうが恥ずかしい。ところで、聞きたい。なぜ全国に、土地をめぐるあのような訴訟が絶えないのだろうか?」

「それは、あなたが諸国の事情をよくご存じないからでございます。この鎌倉におられて、確かに公正な政治を行なっていらっしゃいますが、遠い地にいる代官には、あなたのそういうお気持ちがわかりません。あなたと諸国の地域との距離があまりにもへだたりすぎ、情報が入りません。いまどきの人間は、一日に約十里(四十キロメートル)歩くと申します。そうだとすれば、一日何もお聞きにならないとすれば十里遠くの土地の実態がお耳に入りません。二日なら二十里遠くのことが、十日なら百里離れた地域の実態がお耳に入りません。これは恐ろしいことです。現在は、上と下との距離がへだたりすぎ、そのへだたりを利用して、諸国の代官が勝手なことをしているのです。民が苦しむのは当然です」

「……」

時頼は黙った。じっと青砥の顔を見つめていた。青砥も臆せずに時頼の顔を見かえしていた。

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