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河田小龍~坂本龍馬の師匠は勝海舟だけではなかった

2018年12月12日 公開

歴史街道編集部

『画人・河田小龍』より

 

龍馬に影響を与えた男

 今年4月、リニューアルオープンして好評を博しているのが、高知県土佐清水市の「ジョン万次郎資料館」だ。幕末、漂流してアメリカにわたったジョン万次郎の足跡を丁寧に紹介する貴重な資料館である。

 ジョン万次郎といえば、しばしば「坂本龍馬に大きな影響を与えた」といわれる。しかしじつは、2人に面識があったという確かな史料はない。では、なぜそう語られるのか。ある人物が間接的に、龍馬と万次郎を繋いだからだ。すなわち、河田小龍である。

 龍馬の「師匠」といえば、勝海舟を思い浮かべる方が多いだろう。たしかに、龍馬は勝に導かれて神戸海軍操練所に入り、さまざまな教えを受けた。その結果、海援隊を設立したという点に鑑みれば、勝ほど龍馬を語るうえで欠かせない男はいない。

 しかし小龍もまた、龍馬に多くの影響を与えている。小龍との出会いなくして龍馬の活躍なし、といっても過言はないだろう。

 

近藤長次郎も通った墨雲洞

 幕末、吉田松陰の松下村塾や、緒方洪庵の適塾をはじめ、全国の各地に多種多様な「私塾」が開かれた。私塾とは学者などがプライベートに市井に開いた塾のことであり、いまでいうところの「私立学校」だ。

 私塾の教えは、陽明学、蘭学、砲術、西洋医学、操船術など塾によってさまざま。多くの塾は藩校と異なり入塾資格がなく、また嘉永6年(1853)の黒船来航で若者たちが危機感を覚えたことで、幕末に隆盛を誇った。

 そんな私塾を河田小龍も開いていた。名は「墨雲洞(ぼくうんどう)」。その塾を訪ねていたのが、坂本龍馬だった。では、小龍は塾で何を教えていたのだろうか。

 そもそも小龍に関しては、幕末好きならば一度は名前を聞いたことがあるだろうが、その生涯や人物像についてはあまり語られてこなかった。

 小龍が生まれたのは文政7年(1824)、龍馬が生を享ける約10年前のことだ。まず才覚を発揮したのは「絵描き」としてである。12、3歳のころから絵を学び始め、23歳から狩野永岳の門下で伝統的な京狩野の画風を身につけた。その生涯で、多くの作品を世に残している。

 彼が開いた墨雲洞は、画学塾であった。同塾には龍馬のみならず、長岡謙吉や近藤長次郎など、多くの人物が通っていた。もちろん彼らの目的は絵を学ぶことだったわけではない。

 

高知城下きっての知識人

「画を学ぶ者は、まず学問より入らねばならない」。これが小龍の持論であった。彼の作品には、楠木正成・正行親子の「桜井駅の別れ」や、中国唐時代の「玄宗皇帝遊戯之図」など、知識水準の高い作品が多かった。そうした作品を描くために、小龍は背景にある歴史や思想を学んでいた。

 そんな小龍を見込んだのが、のちに藩の参政の職に就く吉田東洋である。東洋は当時から大船や大砲の建設を構想していた先進的な男だ。東洋の取立てもあり、小龍はいつしか高知城下きっての知識人と謳われるようになった。

 小龍にとって大きな経験となったのが、ジョン万次郎との出会いである。小龍は万次郎の渡米の経験を『漂巽紀畧 (ひょうそんきりゃく)』という書に著わした。高知県立坂本龍馬記念館学芸員の三浦夏樹氏によれば、しばしば誤解されがちだが、小龍は藩から万次郎への取り調べを命じられたわけではないという。

 小龍が藩から依頼されたのは、万次郎持参の世界地図に英語で書いてある国名を和訳すことであった。その過程で、小龍がアメリカ帰りの万次郎の「知識」に関心をもち、話を聞くうちに「書き残さないと勿体ない」と考えて完成させたのが『漂巽紀畧』である。

 

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