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海軍が特攻兵器を造る決意をした日~回天特攻作戦参謀による証言

2018年12月20日 公開

海軍反省会

敷島隊の特攻機が命中した、空母セント・ロー
昭和19年10月25日、敷島隊の特攻機が命中した、空母セント・ロー

本稿は昭和58年6月9日に行われた、第42回「海軍反省会」において議論された内容である。『[証言録]海軍反省会』の第5巻に収録されている。
特攻については、発案、実行、結果という要素があるが、ここでは、第六艦隊(潜水艦隊)で回天特攻作戦の担当参謀であった鳥巣建之助氏の発言から始まっている。
実際に特攻作戦を指導するという、苦しい体験を背景にした鳥巣氏の特攻論には、非常に重いものがある。
議論の中では、特攻作戦というものが、戦後長く言われていたように、レイテ決戦でやむを得ずに始められたというものではなく、かなり早い時期から着々と準備されていた作戦であることが明らかにされている。

※本稿は戸髙一成編、PHP新書『特攻 知られざる内幕』より一部を抜粋したものです。
 

大本営海軍部が特攻に踏み切ったのは昭和19年7月

それでは本論に移らせて頂きます。

まず、特攻の決断、であります。

特攻という名前は、ご承知のように「特別攻撃隊」を略して「特攻」というふうにしたわけでありますけれども、特別攻撃隊というそもそもの名前は、これは開戦のときの特殊潜航艇につけた名前でありまして、これは昭和16年の11月、六艦隊の先任参謀の松村寛治(兵50)中佐の発案で、六艦隊の清水(光美・兵36)長官が命名されたことになっております。

ところがこの特攻、特別攻撃隊と現在我々が言っておる特攻とは、ちょっとニュアンスが違うのであります。

我々の今言ってる特攻というのは、いわゆる万死零生の絶対死の攻撃を意味しておりまして、その限りにおいては特殊潜航艇、真珠湾奇襲の第一次特別攻撃隊、それから17年5月31日決行されました、シドニーとマダガスカルのディエゴスワレスへの第二次特別攻撃隊も、厳密な意味では特攻ではなかったのであります。

これらの特別攻撃隊はほとんど(生還)不可能ではありましたけれども、収容の手段は講じられておりまして、これは万死零生の作戦ではありません。

これに対していわゆる「特攻」は絶対死を前提としておりまして、その行使はご承知のように昭和19年10月下旬、第一航空艦隊司令長官の大西(瀧治郎・兵40)中将の決断によって、神風特別攻撃隊の突入に始まることは、ご承知のようであります。

しかし、この時点で特攻が突然出たものではありません。

大本営海軍部が正式に特攻に踏み切りましたのは、昭和19年の7月であったと見るのが至当であります。

もちろんそれよりも半年も早く、海軍省や軍令部が動き出しておったわけでありまして、それを本格的に意思表示したのが19年の7月であるというふうに見ておるぐらいなんです。
 

海軍が特攻兵器を造る決意をした日

この件については実は中澤(佑・兵43)中将に対しても私、異論を差し挟んだわけでありますけれども。

中澤(佑・兵43)中将が軍令部の一部長のとき、当時、源田(実・兵52)さんなんかも関係しとったわけですが、昭和19年7月21日に軍令部の総長(嶋田繁太郎・兵32 )から豊田(副武・兵33)連合艦隊長官に捷号作戦に対する指令が出ております。「大海指」第四三一号別紙というのが出ています。

その中に、「潜水部隊の作戦」というのがありまして、その中に、「大部をもって邀撃作戦あるいは戦機に投ずる奇襲作戦を実施する」ということが書いてあります。

ついで、その次に「奇襲作戦」という項目がありまして、その二に、「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などをもってする各種奇襲戦の実施に務む。局地奇襲兵力はこれを重点的に集中配備し、敵艦隊または敵侵攻兵力の海上撃滅に努む」ということが明記しておるわけです。

この「大海指」の中にあります奇襲作戦、特殊奇襲兵器、局地奇襲兵力などという言葉は、どういうことを意味するのかと申し上げますと、ちょうどこの19年の7月に⑥(まるろく)兵器、後の回天でございます、の試作が完了しておるのです。

そして、8月1日に正式に「回天」というふうに命名されたのであります。

このことは結局、この特攻兵器がもっと以前に非公式ながら中央で取り上げられて、施行が決定されていたことを物語るものでありまして。

それは昭和19年2月26日に、これは当時、山本(善雄・兵47)軍務部一課長の下で勤務しておりました、吉松田守(兵55)中佐の記憶にもはっきりしとるわけですが、海軍省軍務局第一課長の山本善雄(兵47)大佐は水中特攻兵器⑥(まるろく)の試作を内定し、呉海軍工廠魚雷実験部に、その設計試作を内示しました。

というて、山本(善雄・兵47)課長が突然これを決定したわけではありませんので。

その前提といたしまして、実はこの構想は呉の倉橋島の大浦崎におりました黒木博司(機51)中尉と仁科関夫(兵71)少尉、二人の間で発案されたわけです。

この二人は実は昭和18年10月15日にいわゆるP基地(大浦崎特殊潜航艇基地)で一緒になりまして、なんかこの頽勢を挽回する兵器はないかというふうに考えた結果ですね、いわゆる九三魚雷、酸素魚雷に注目いたしまして、そしてそれの見通しを立てました。

18年の暮れにその案を持って東京へ上京いたしまして、軍務局員の吉松田守(兵55)中佐を通じて、山本(善雄・兵47)一課長に会うて、これを具申したわけです。

ところがそのときには山本(善雄・兵47)課長ははっきり断っております。

ところがご承知のように、その後、戦局が急激に悪化いたしまして、先ほど申しましたようにトラックの大空襲になって、もういよいよどうにもならん、もはや特攻に頼るほかないというような状況になりまして、山本(善雄・兵47)一課長は大臣、あるいは軍務局長には相談せんで、直接呉の水雷部に試作する(命ずる)、と。もうとにかく試作するということでスタートしたわけであります。

これが昭和19年2月26日でございます。

ところがそれと相前後いたしまして、軍令部でも同じような動きがあったわけであります。

特攻に最も熱心でありました軍令部の第二部長の黒島(亀人・兵44)少将は、艦政本部の坂本義鑑技術大佐(造兵)を呼びまして、人間魚雷の緊急試作を指示しております。

これがだいたい、内藤(力・兵57)中佐なんかの記憶によりますと、19年1月20日頃だということであります。

いずれにいたしましても、19年の1月、2月頃には海軍省も軍令部も特攻に対して乗り出すということは、これはもう間違いない事実です。

それ以外にですね、あとは読んで頂けばいいんですが、竹間忠三(兵65)という潜水艦乗り、あるいは近江誠(兵70)、入沢三輝(兵63)というような人たちが、いろいろそれより前に人間魚雷の案を連合艦隊とか軍令部に上申、具申しております。

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特攻に関する下からの具申が次々出ていた >



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