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室町幕府は弱かった? 『観応の擾乱』の亀田俊和先生に聞いてみた

2018年12月26日 公開

足利義満
 

建武5年(1338)、足利尊氏が征夷大将軍に任じられる。
以後、二百数十年にわたって、足利氏を将軍とする体制が続いた。
──室町幕府。今日の日本文化の原型が生まれるなど、日本史における重要な時代であったにもかかわらず、「よくわからない」という人も少なくないだろう。
「室町幕府」を、ベストセラー『観応の擾乱』の著者・亀田俊和氏がわかりやすく解説する。
 

亀田俊和 Kameda Toshitaka PROFILE
国立台湾大学日本語文学系助理教授
昭和48年(1973)、秋田県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程歴史文化学専攻(日本史学)研究指導認定退学。京都大学博士(文学)。京都大学文学部非常勤講師を経て現職。主な著書に『高一族と南北朝内乱』『観応の擾乱』などがある。

 

「徹底した実力主義」が招いたものとは

室町幕府と言えば、鎌倉幕府、江戸幕府と比べてどうしても戦乱が多くて弱いというイメージがつきまとうのではないでしょうか。

たとえば、発足してわずか12年で観応の擾乱という内紛が勃発します。これは、初代将軍・足利尊氏と弟の直義が対立し、全国を股にかけて争った内乱です。

3代将軍・足利義満の時代は室町幕府の全盛期で最も安定していましたが、それでも土岐氏、山名氏、大内氏といった有力守護を、たびたび粛清する必要にせまられていました。

嘉吉元年(1441)には6代将軍・足利義教が播磨守護・赤松満祐に暗殺され(嘉吉の乱)、応仁元年(1467)には有名な応仁の乱が始まります。

その後は戦国時代に突入し、将軍家もたびたび分裂し、一世紀にわたって混乱が続きました。

しかし、内紛や戦乱は鎌倉幕府も負けず劣らず多いです。周知のように、鎌倉幕府では将軍は飾り物で、実権を握っていたのは、元々伊豆国の在庁官人にすぎなかった執権・北条氏でした。江戸幕府の安定度は世界史的に見ても驚異的で、これと比較するのは酷だと個人的には思っています。むしろ黒船が来航してからわずか14年で滅亡した江戸幕府と比較して、何度も京都を追われながらも生き残った室町幕府のしぶとさを評価すべきかもしれません。

鎌倉幕府・江戸幕府とは異なる室町幕府の特色として、私は「徹底した実力主義」を挙げることができると考えています。

もちろん、鎌倉幕府・江戸幕府にも実力主義は存在していましたが、室町幕府の実力主義ははるかに徹底しています。少なくとも義教の頃までは、そうした風潮が残っていたと思われます。

合戦で手柄を立てた武士には、将軍が恩賞として所領や官職を与えました。指揮官クラスは守護職を拝領し、地方統治を担当しました。

寺社もまた幕府軍の勝利を祈禱し、僧兵を派遣して軍事的に貢献することさえしばしばで、将軍は所領を寄進することで寺社の忠誠に報いました。

訴訟に際しても幕府への忠誠や貢献が評価され、証拠文書に問題がなければ迅速に判決が下され、執行されました。

「努力すればする分だけ報われ、利益を与えられる」という信頼があったからこそ、義満は南北朝合一を成し遂げ、全盛期を築いたのではないでしょうか。

もちろん、常に能力や貢献を試されて競争を強いられ続ける環境であったことが、室町幕府の政治が不安定だった要因の一つです。過当な競争は、いずれ破綻します。何より将軍自身もまた臣下に常に実力を試される存在で、最後は武士の貢献に応えることができなくなり、衰退・滅亡しました。

しかし、「努力しても報われない」閉塞感が漂う現代日本において、室町幕府の実力主義は、ある程度再評価する価値があるのではないでしょうか。
 

室町幕府における将軍と大名の関係

この問題についてもさまざまな議論がありますが、やはり諸国の守護が基軸の制度だったと私は考えています。御判御教書による将軍の命令を守護が執行する。これが応仁の乱に至るまでの室町幕府体制の基本でした。

もっとも初期の室町幕府においては、守護は必ずしも好まれていたわけではありません。地方で南朝軍との苦しい戦いを強いられ、敗北すれば全責任を負わされ失脚する守護の立場を、本音では忌避していた武将も多かったようです。武将たちは、便利で娯楽の多い京都の生活を好んでいました。

全盛期の幕府でも、守護たちは基本的に在京志向が強かったことが指摘されていますが、初期からそうでした。武勇で名高い執事・高師直一族でさえ守護職にはさほど興味はなく、地方の南朝軍を鎮圧すると守護職を他の武将に譲り、帰京して在京奉公に戻るのが普通でした。

しかしその師直一族が観応の擾乱で敗北して壊滅的な状態になると、守護分国を集積することの有効性を認識する武将が増え始めたようです。

仁木頼章、細川清氏、斯波義将といった、師直の後任の執事たちは皆、守護分国の集積や経営に力を入れています。清氏と仁木義長が対立した原因の一つが、伊賀守護職をめぐる争いであるなど、守護職の争奪を契機とする紛争も増加します。そして守護分国の獲得と世襲に成功した武家が、三管四職として将軍を支える体制が確立しました。

一方で、将軍と守護を、潜在的に対立する存在であるとする見方も根強くあります。

前述したように、3代将軍・足利義満は土岐氏、山名氏、大内氏といった有力守護を次々と打倒し、六代将軍・足利義教も若狭・丹後守護の一色義貫を殺害したり、加賀守護・富樫教家を追放したりしています。彼が播磨守護・赤松満祐に暗殺されたのも、著名な史実です。

8代将軍・足利義政も斯波氏、畠山氏の後継者争いに介入し続け、最終的に応仁の乱を起こしてしまいました。また、守護から相対的に自立した国人たちを、将軍が奉公衆、つまり直轄軍として編成した史実も知られています。

ただし、将軍が守護を粛清しても、必ず別人を新たな守護に任命した事実は看過できません。将軍が嫌ったのは力を持ちすぎた守護であり、守護という制度そのものはまったく否定していなかったのです。

地方の統治に、守護は必要不可欠な存在でした。奉公衆も守護家の庶流が取り立てられる事例が多く、将軍と守護が協調する側面もありました。

結局、室町幕府は守護制度が基本で、将軍と守護が相互に補完し合って統治する体制だったと、私は結論づけています。

※本稿は、歴史街道2019年1月号特別企画「10分でわかる室町幕府」より、一部を抜粋編集したものです。

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