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豊臣秀長~秀吉を輔佐し続けた名脇役

2019年02月12日 公開

童門冬ニ(作家)


 

秀長は兄・秀吉のサーモスタット

電気製品にサーモスタットというのが取りつけられている。「自動制御装置」と訳される。電子工学でいう、「出力の一部を入力に変えて、出力をセーブ(制御)する」という考え方だ。

電気冷蔵庫は人間がいないときでも作動しつづける。しかし冷えすぎた場合には、サーモスタットが自動的に作動し、冷やすのをやめる。中が暖かくなると、再びスイッチが入って冷やしはじめる。この作業を行なうのがサーモスタットだ。

豊臣秀吉の弟秀長は、まさしく秀吉のこのサーモスタットではなかっただろうか。

「豊臣秀長は秀吉の名補佐役であった」

とよく言われる。とくにその「二番手主義」が評価され、人柄の温かさとともに「秀吉を脇から支えた」と言われる。そういう見方もあるだろう。しかし筆者は、むしろ秀長はもっと積極的に、秀吉の心身の一部と化すまで、秀吉自身のサーモスタットになっていたと思う。

九州の南に拠点を構える島津氏が、九州全土の制覇を目指して北上したことがある。追いまくられたのが大友宗麟だ。宗麟は悲鳴を上げ、秀吉に援軍を求めた。このとき大坂城にやってきた宗麟を懇切丁寧に案内したのが秀長だ。宗麟ははじめて大坂城を訪れたが、このとき一つの印象を持った。かれの有名な言葉だ。

「豊臣家では、表のことはすべて弟の秀長が支配し、内々のことは千利休という茶頭が取り仕切っている」

当時の秀長と千利休の権勢のあり方を示している。

秀長は天正19(1591)年1月22日に死去する。51歳だった。

ところがその直後の2月に、千利休が秀吉によって切腹を命ぜられる。

「茶道という芸術分野での権勢に馴れ、奢り高ぶる行為が多い」

というのがその理由だ。具体的には、京都の大徳寺の山門に自分の木像を安置して、下を通る者の頭を踏みつけたのがけしからんという理由だ。秀吉も、この山門の下を通るときは利休に頭を踏みつけられることになる。秀吉は怒り、切腹した利休の遺体を京都の町にさらした上、大徳寺の山門から木像を運び出して、この木像に利休の遺体を踏みつけさせたという。

これは、すなわち秀吉の頭の中からサーモスタットが取り去られたことを物語る。この秀吉の頭の中におけるサーモスタットとは、とりもなおさず豊臣秀長という弟の存在であった。
 

名補佐役、名参謀を超えて

戦国時代には、名補佐役とか名参謀とかという存在がいろいろと語られる。そしてかれらの役割は、「トップの理念追求過程で、その能力の足りない部分を補う」ことだとされた。

名参謀、名軍師といわれた存在は数多くいる。

しかし秀長の場合は、それよりも一歩前に出ていた。というのは、秀長は秀吉の実弟であり、子供のときからともに育った肉親だったからだ(秀長はいままで秀吉の異父弟だと言われてきたが、最近の研究では父親も秀吉と同じだという説が定着しはじめている)。

兄と弟の関係で言えば、名補佐役としては武田信繁がいる。武田信玄の実弟だ。信玄の父信虎は、長男の信玄が嫌いだった。なぜか弟の信繁を可愛がり、

「信繁に自分の跡を継がせよう」

とはっきり態度に示した。しかし信繁は利口者で、そんな父親の態度にもかかわらず兄にはまめまめしく仕えた。信繁だけにくれた珍しい品物や玩具も、貰うとすぐ信繁は兄のところに持っていった。そして成人すると、信玄は父を追放した。が、ふつうの場合、こういうときに、兄は弟を殺す。織田信長や伊達政宗がそのいい例だ。しかし信玄は信繁を殺さなかった。

というのは、信繁のほうが積極的に自分を変えて、信玄に忠節を尽くしていたからだ。信繁が書いた文書に有名な『甲州法度之次第』というのがある。これは、

●自分すなわち武田信繁は、武田信玄公の弟ではない、家臣である
●したがって、信繁家の家族はすべて信玄公に対し、親戚というよりも家臣であるという立場を示さなければならない
●武田家の家臣団も、全員自分にならって、信玄公に忠節を尽くせ

ということを宣言したものである。つまり信繁は、

「自分は信玄の弟ではない、家来だ」

ということを示すことによって、身の安泰を図ったと言ってもいい。さすがの信玄も、この信繁の積極的な献身ぶりにはつけ入る隙がなかったのだ。

この信玄と信繁の関係を豊臣秀長が知っていたかどうかはわからない。しかし秀長は、

「自分は秀吉公との兄弟の関係を大事にして、兄の心身の一部となろう」

と考えた。かれの秀吉に対する補佐ぶりは、秀長という独立した弟が存在するのではなく、むしろ秀吉の心身の一部となって秀吉の行動を助けようという考え方で貫かれる。

秀長は、秀吉が功績を立てた合戦にはほとんど参加している。墨俣城の築城や、稲葉山城の攻略、信長の方針による中国攻略、四国征圧、九州征圧などにはすべて参加している。

参加できなかったのは、秀吉の最後の事業、小田原の北条征圧のときだけだ。このとき秀長はすでに病の床にあった。このため、秀吉の天下平定の実現を見ずに先に死んでしまった。

しかし、具体的な合戦――たとえば中国攻略における諸方面での征圧は、秀長が指揮を執って行なったものだ。四国征圧に至っては、長宗我部氏を降伏させたのは秀長の独力である。この合戦に秀吉は参加していない。降伏式というセレモニーに出席しただけだ。九州征圧も同じだ。実質的に島津氏を屈服させたのは秀長だ。そして最終場面の晴れやかなセレモニーに兄を呼んで、花を持たせたのである。

このように、秀長は単に秀吉の参謀としての仕事をしただけでなく、現場の司令官としての優れた能力を持っていた。つまり秀長にすれば、

「自分が中国方面や四国や九州を平定しているわけではない。兄が平定しているのだ。自分は兄の分身であり、その一部なのだ」

と思うからこそ、かれが存分に能力を発揮することができたのだ。

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