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日ソ中立条約~信ずべからざるものを信じた大日本帝国

2019年02月09日 公開

海軍反省会

国後島
北方領土(国後島)
 

​第116回海軍反省会

平成元年9月26日開催

日本海軍の中堅幹部が、先の大戦について戦後、語り合った肉声を収録した『[証言録]海軍反省会』(全11巻)。今回はその中から、日ソ関係、日ソ中立条約をめぐる諸問題について、末国正雄氏(兵学校52期、大佐)の証言と、それをめぐる議論の一部をお届けする。なお、本稿は極力「話し手の口調」をそのまま書き取って掲載した。

出席者           

杉本正彦/鳥巣建之助/小池猪一/保科善四郎/大井篤/千早正隆/末国正雄/豊田隈雄/寺崎隆治(司会)

 

末国正雄発表

日本とソビエトの外交史

末国 この問題はね、私がなぜこんなことをやったかというと、ソ連が日ソ中立条約を破って(昭和)20年8月9日に侵入してきたので、いったいソ連という国は条約を守る国なんだろうか、そうではない国であてにならない国であろうかということをね、ちょっと検討してみたいと思って、こんなものをやってみたんです。そしてやってみますと、ソ連は明治33年に北清事変がありましたときに、北清事変に名を借りて、大兵を満州に投入して満州を一挙に占領したんです。そして北清事変終了後、露国と清国の条約で徹兵をする約束をしているんです。そして第一次の撤兵はやったが第二次撤兵は口実をもうけてやらない。そして朝鮮に侵略の手を伸ばしていったと。それが日露戦争の大きな発端となったわけです。そしてそういうことを考えてみると、ソ連という国は、条約は結んでも全然これを実行しようとしない国であるので、今度は日ソ中立条約というものが昭和16年に忽然として出てきたのか、それとも日ソ中立条約というものは、その発端について歴史があるのかどうかを見たいと思って色んな資料をあたっていましたところが、この日ソ中立条約というものは、相当古いところに根があるわけ。みなさん多くは昭和16年に松岡(洋右)外相が突然、日ソ中立条約をやったごとくお考えになっていると、これは誤りである。というのでこんなものを調べてみたわけです。

そしてみなさんのお手元に差し上げてある資料は日ソ中立条約ができるまでにソ連が非常に日ソ中立条約の提案を日本にしているわけ。そして日本は日ソ中立条約の提案を蹴飛ばした時期があるわけです。そしてこういうような蹴飛ばした後にはソ連が今度は、その日ソ中立条約を日本が拒絶したことの口上書を世界に発表した。そこで日本はそれに抗議を申し込んだ。そうするとそれに対してまた反対の口上書を寄こすと。いうようなことをくり返しながら日が経過しているところへ、昭和16年に今度は日本から忽然として日ソ中立条約の申し入れをしたわけ。それでソ連がもう大正の初め頃から盛んに日ソ中立条約を締結しようじゃないかと言って申し込んできた魂胆はどこにあるのか。それを伺ってみたいわけです。その経過を書いておりまして、そして後のほうには今度は日中戦争が始まって、日中の和平工作というものが色々行われているんですが、それが成り立たなかった。その成り立たなかった背景は、欧州戦争と関連が深いわけです。それで後のほうにはその関係の概略年表を当たってみたわけです。その背景の中に日ソ中立条約を結ぼうという魂胆をソ連が出してきたのはそういう背景のもとに出てきているということを、ある程度うかがい知ることができるわけであります。

まぁこういうことと、それからこれにはあまり書いておりませんが、日ソ中立条約の条文を書いておりますから、そういうものをひっくるめて日ソ中立条約の本体とそれからこれがヤルタ会談というので、ソ連が日ソ中立条約を有効期限内までは守っていく意思のないことがはっきりしたわけでありますから、そのへんを検討してみようという考えであります。

そして第一がですね。最初に日ソ基本条約というのが大正14年にありました。それから今度は昭和2年になってソ連から日ソ中立条約の締結の申し入れがあるわけ。それが昭和2、6、7年と7年にはしつこく言ってきているわけですね。こうしてこれが8年、9年、14年とずっと続いて来るわけです。そして15年にはまだいいんですが、この15年になると日本が今度は建川(美次・士13)ソ連駐在大使を通じて日ソ中立条約の申し入れをやる。そして16年4月に松岡(洋右)外相がドイツに行った帰りがけに忽然と条約を結んで帰ってくるわけ。そしてそういうことで日ソ中立条約ができあがるんですが、そこでね、日ソ中立条約がどういうのであったのか、もういっぺん条文を当たってみます。

16年4月13日、モスクワで調印をした。そして有効期限は5年であります。5年ということは昭和21年4月まで有効であるわけ。その条文をちょっと読んでみますと、「大日本帝国天皇陛下及びソ連邦最高会議幹部会は、両国間の平和及び友好の関係を強固にするための希望に促されて中立条約を締結することに決し、これがため、左の如く全権委員を任命せり」と言ってそこへ全権委員が松岡(洋右)と建川(美次・士13)陸軍中将が任命されております。そして第1条は、「両締約国は両国間に平和及び友好の関係を維持し、かつ相互に他方締約国の領土の保全及び不可侵を尊重すべきことを約束した」。だから領土の保全と不可侵ということを明確に決めておるわけです。それから第2条、「締約国の一方が一つまたは二つ以上の第三国よりの軍事行動の対象となる場合には、他方締約国は該紛争の全期間中中立を守るべし」。

こうなっておりますから、大東亜戦争になっても、この大東亜戦争が終わるまではソ連は完全に中立を守る約束であります。それから第3条、「本条約は両締約国おいて、其の批准を了したる日より実施せらるべく、かつ5年の期間効力を有す」。というのは昭和21年4月24日までです。そして「両締約国のいずれの一方も右期間満了の一年前に本条約の廃棄を通告せざるときは、本条約は次の五年間自動的に延長せられたるものと認む」。だから廃棄通告がなければ、もう5年自動延長ということであります。それで「本条約はなるべく速やかに批准せらるべし」と、「批准書の交換は東京においてなるべく速やかに行われるべし」。

そしてこれには両国の声明書というものが付属してある。そしてソ連が今度はこの条約を不延長の通知を出してきたのが昭和20年4月5日、モロトフ(Vyacheslav M. Molotov)外相が駐ソ佐藤(尚武)大使に日ソ中立条約の不延長を通告した。そこでね、今度は日本から、その前にヤルタ会談っていうのがあるんです。そのヤルタ会談が20年2月4日から始まって、2月11日に終わるんです。そしてそのヤルタ会談には対日秘密協定というものがあるんですが、その2月11日に終わった後の、2月22日に佐藤(尚武)大使がモロトフにヤルタ会談の対日影響はどういうものであるかという質問をしているわけ。それに対してモロトフは日ソ中立条約の関係があるということだけ言って、あとは言わなかった。そこでもう一つ、今度は4月5日に中立条約の不延長の通告があったときにモロトフは、ソ連の中立維持については従来と全く変化がないと声明をしているんです。で、こういうことをやりながらですね。ヤルタ会談の裏では対日参戦を正式に約束しているわけ。これが大変な問題でありまして、ヤルタ会談の中身が本当に日本に分かってきたのはね、もう終戦になってからタス通信の新聞社の原稿で分かったわけ。

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