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殿様は江戸で何をしていたのか?~幕府の監視下に置かれた窮屈な日々

2019年02月28日 公開

安藤優一郎(歴史家、文学博士)

「江戸は町民が主役!」と言うけれど、実は江戸の面積の7割は武家地で、さらにその大半を、参勤交代で全国から集まる殿様と家臣の大名屋敷が占めていた。そんな大名屋敷と殿様の生活に迫ります。

※本稿は、安藤優一郎『大名屋敷「謎」の生活』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
 

「殿様は江戸で何をしていたか?」─江戸城への登城が「最大の公務」だった

江戸藩邸で隔年ごとの生活を強いられた諸大名は江戸在府中、何をしていたのか。

老中などの幕府の役職に就かなかった大名の場合、江戸城に登城して将軍に拝謁したり、江戸城内で執り行われる様々な儀式に参列することが、幕府に対する最大の公務(義務)となっていた。

しかし、一口に江戸城への登城と言っても、当の大名や藩士たちにとり、実に大変なことだった。江戸参勤ほどの規模ではないものの、大名行列を組んで江戸城に向かうが、これが物凄い混雑を引き起こす。それが回り回って、自らの登城に時間が掛かる結果を招いたのである。

登城日は、あらかじめ幕府から決められていた。

もちろん、公務であるから勝手に休むことなどできない。病気などで登城できない場合は、その旨をあらかじめ届け出る必要があった。届け出もなく登城しなかったとなると、ただでは済まず処罰対象となる。
 

決められた日以外に登城することも、「不時登城」として堅く禁じられていた。

安政5年(1858)6月24日、水戸前藩主・徳川斉昭、水戸藩主・徳川慶篤、尾張藩主・徳川慶恕(慶勝)、福井藩主・松平慶永(春嶽)の4大名が不時登城を強行する。5日前の19日に、大老・井伊直弼が時の孝明天皇の許可(勅許)なしに日米修好通商条約を締結したからだ。斉昭たちは直弼を面詰するが、暖簾に腕押しの問答となる。何の成果もなく、4人は下城せざるを得なかった。

7月5日、直弼は将軍・家定の意思と称して斉昭を謹慎、慶恕と慶永に隠居謹慎を命じた。不時登城が処罰の理由である。斉昭たちの行動を逆手にとり、将軍継嗣問題で「政敵」だった一橋派大名の追い落としに成功したことは、幕末史ではよく取り上げられる出来事である。

以下、登城日を具体的に見てみよう。

毎月1日、15日、28日が定例の登城日(「月次(つきなみ)御礼」と称される)とされていた。江戸城に登城して将軍に拝謁した後は、そのまま屋敷に戻ることになる。

年始や五節句(3月3日の桃の節句や、5月5日の端午の節句など)、そして徳川家康が江戸城に入った日とされる八朔(8月1日)など城中で執り行われる儀礼の日も、江戸在府中の大名は登城が義務付けられた。

若君誕生のような慶事の時にも、お祝いを申し述べるため登城する。年間で見ると、登城日は20~30回ということになるだろう。

こうした登城日に、江戸在府中の殿様たちは江戸城の周りで拝領した屋敷を出て、一斉に江戸城へと向かうのである。
 

熾烈な江戸城への「通勤ラッシュ」─200もの大名行列が江戸城に殺到!

では、実際の登城の様子を当のお殿様に語ってもらおう。最後の広島藩主・浅野長勲(ながこと)の証言である。

最後の広島藩主である浅野茂勲(もちこと、明治に入ると長勲と改名)は昭和に入り、三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)の質問に応える形で殿様の日常を語っている。鳶魚は江戸の社会風俗の記録者として知られるが、長勲の回顧録に登城について述べた箇所があるのだ。

私の屋敷は霞ケ関にありまして、登城いたすのが昔の五ツ時、四ツには謁見があった。この時連れます同勢は、大分人数が多いので、二ノ切、三ノ切などと称(とな)えて、二つにも三つにも間を切ってある。諸人通行の邪魔になるからです(浅野長勲「大名の日常生活」『幕末の武家』)

浅野家の上屋敷は現在の霞が関にあったが、歌川広重(二代)の錦絵に浅野家の上屋敷と福岡藩黒田家の上屋敷が並ぶ様子を描いた「東都名所霞ケ関全図」がある。真ん中を走る霞が関坂を挟んで、右手が浅野家の上屋敷、左手が黒田家上屋敷という構図だ。

登城するため長勲が霞が関の上屋敷を出る時刻は、午前8時(五ツ時)だった。将軍に拝謁するのは、その2時間後の午前10時(四ツ時)。長勲は江戸城の目と鼻の先の屋敷に住んでいたが、なぜ2時間も前に屋敷を出なければならなかったのか。

登城するのは浅野家だけではない。江戸在府中の大名すべてが江戸城に向かって行列を組むからだ。

三百諸侯の半分が江戸在府である上に、幕府の役職に就いている大名も登城するわけだから、200ほどの大名行列が城に一斉に向かうことになる。

浅野長勲の回顧録には、登城時の供連れの様子が紹介されている。行列の後方に「駕籠」とある。長勲が乗っている駕籠だ。

これによれば、浅野家の行列の人数は80人ほど。広島藩浅野家と言えば40万石を超える外様の有力大名であり、お供の人数は多いほうだが、それでも200もの大名行列となれば、江戸城に向かう大名行列の総人数はゆうに1万人を超えただろう。

200もの登城行列が城に向かう様子はまさしく壮観で、江戸の名物の一つになっていた。わざわざ見物しに来る者も多く、登城日の江戸城城門前は観光名所としても賑わっていた。

しかし、江戸城に向かう大名にしてみると、物凄い混雑のなか行列を向かわせることになる。まさに江戸城への「通勤ラッシュ」の光景が展開されたはずだ。

長勲の証言によると、行列を3つぐらいに分けて、間隔を置いて城に向かった。80人の縦隊となると、およそ200~300メートルの長さとなり、通行の迷惑にもなるからだが、その分、城門までの時間も掛かるのは避けられなかった。混雑も増しただろう。

そして、自分よりも格上の大名の行列にぶつかると、道を譲らなければならない。外様の雄藩浅野家といえども、徳川御三家の行列に出会えば敬意を表し、殿様は駕籠から降りて挨拶しなければならなかった。

この時代、拝謁の時刻に遅れることは決して許されない。そのため、時間にかなり余裕を見て、2時間前に屋敷を出発したわけだ。

万が一遅刻してしまったら、幕府の懲罰が待っている。そもそも、名誉と体面を重んじる武家社会において、遅参とはこれ以上ない恥辱だった。

戦場に置き換えてみれば分かるだろう。一番乗りが「武門の名誉」とされた時代であり、時間に余裕を持って出発しているのは、そうした意識の表れなのである。

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