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かつて教科書から消えた縄文時代。その理由とは?

2019年03月20日 公開
2022年06月23日 更新

関裕二(歴史作家)

戦後史学界を席巻していた唯物史観の弊害

農耕をする以前の狩猟採集の時代が縄文時代とする定義は、すでに戦前になされていた(1930年代)。縄文人は先住民のアイヌ族と考えられてもいた。

すでに大正時代の1910年代ごろから、科学的な研究が進み、土器の編年作業が始まっていたが、縄文は未開社会というイメージは、つきまとった。

この考えから先に進んだのが、山内清男だった。大陸との交渉がほとんどなく、農業を行った痕跡がない時代と、大陸と交渉を持ち農業が一般化した時代に区切り、紀元前2500年に始まる縄文土器の時代(当時はそう考えられていた)とそのあとに続く弥生時代の概念を明確にしたのだ。

ちなみに、新石器時代に入っても農耕を行わなかった縄文人を「高級狩猟民」と、山内は位置づけたのだった。

戦後になると、今度は唯物史観が、史学界を席巻してしまった。物質や経済、生産力という視点で歴史を捉え、「人間社会は段階的に発展し、最後は共産主義に行き着く」という考えで、農耕を行っていなかった縄文時代に対し、負の歴史的評価を下している。

生産力は低く、無階級で、無私財であり、停滞の時代とみなした。採集生活には限界があり、呪術と因習も、弥生時代に大陸から新技術が導入されることによって、払拭されたと考える。歴史的発展は余剰と階級の差が生まれる農耕社会によってもたらされると、考えられていたのだ。

もし仮に、縄文時代を通じて、徐々に社会が発展し、成熟していったとしても、自然の再生産まかせで、これを越えることができないのだから、縄文社会には限界があり、後期から晩期にかけて呪術や祭祀が盛んになるのは、限界と矛盾の現れと、みなされた。

入れ墨や抜歯の風習も、縄文社会停滞のシンボルと判断されてしまったのだ。そして、稲作技術が伝わり、ようやく、発展のチャンスを得たというわけである。

たしかに、縄文人は都市に暮らしていたわけではないし、国を形成していたわけでもない。のちの時代のような、階級社会が生まれていたわけでもない。文字もなかった。

そして、狩猟採集をして、獲物を獲得する生活では、歴史発展が進まなかったと信じられていたし、本格的に農業をはじめる「生産経済」になって、ようやく歴史は動き始めたと信じられていたのだ。教科書から縄文時代が消えてしまった理由も、ここにある。

 

縄文時代に対する見方が変わってきた

つい二十数年前のこと。縄文時代を礼讃し、縄文文化は日本固有だと称えれば、「夜郎自大なヤツ」とけなされ、へたすれば、「縄文右翼」と揶揄されたものだ(事実、そう言われたことがある)。

「何もかもが渡来人の仕業」と考えることが最先端、という風潮があったのだ。渡来系の人びとから、先進の文物をもらい受け、海外の文化を猿まねすることで、日本は成り立っていたという。

縄文時代の野蛮で未開な日本列島に、朝鮮半島から新たな文物がもたらされたことで、発展のチャンスがやってきた……。これが、常識のようになっていた。

しかし、ようやく人類は直線的、段階的に進歩していくという唯物史観の呪縛から解き放たれようとしている。

たとえば谷口康浩は、次のように述べている。

狩猟採集社会と農耕社会という段階区分が絶対的な指標になりすぎているために、時代区分や通史が膠着し、過去との自由な対話が閉ざされてしまったような閉塞感がある(『縄文時代の考古学1 縄文文化の輪郭』小杉康・谷口康浩・西田泰民・水ノ江和同・矢野健一編 同成社)

縄文時代を見直すという作業は、歴史の連続性を再確認することでもあると思う。狩猟社会が農耕社会に移行し発展していったというこれまでの常識を、疑ってかかる必要があるということだ。

物質と経済に重きを置いた唯物史観は、縄文人を「原始的な社会」と指摘し、これが大きな影響力を持ってしまったのだ。

しかし、イデオロギーや理屈に歴史を当てはめていくという発想そのものが間違っていたのだ。幸い、考古学の物証の積み重ねによって、新たな発想や仮説が次々と飛び出すようになった。そしていよいよ、事実が思想(思い込み)を凌駕するに至ったのである。

1980年ごろからあと、縄文時代に対する見方が変わってきた。縄文人の「高度な資源利用技術や管理技術(特に、植物の利用法)」が判明してきて、彼らがただの狩猟民族ではなかったことが次第に明らかになってきたのだ。

たとえばクリなどの植物の栽培やイノシシの飼育を行っていたことがわかってきた。建築材に使われる木材は耐久性に優れたクリの木が多く、しかもその使用量が「自然に生えている木を切ってきた」レベルではなく、またクリの成長が、自然木よりも速かった。

縄文時代前期後葉に縄文人は集落を構成するようになったが、花粉分析によって、ちょうどこのころから、ナラ類やブナなどの落葉広葉樹が減り、クリが急速に増えていったこともわかっている。

クリの自生する北限の北海道でも、縄文前期後葉にクリが増えていく。人が手を加えて、クリを増やしていったと推理されていた。この仮説はのちに、三内丸山遺跡(青森県青森市)が発見されて、証明されていくのだが……。

ちなみに、鉄道の防風林にクリが多く用いられたが、クリの木は固く丈夫なので、鉄道の枕木に使われ、一石二鳥の働きをしていた(それはともかく)。

縄文時代後期から晩期にかけて、すでにイネ(陸稲)や雑穀が栽培されていたことがわかってきた。イネや雑穀の原生種は存在しない(イヌビエは例外)から、朝鮮半島や大陸から、タネがもたらされたのだろう(当然だ)。

 

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