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維新後、長州藩の奇兵隊はどうなったのか

2019年06月17日 公開
2023年01月05日 更新

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

奇兵隊脱隊諸士招魂碑
脱隊諸士招魂碑(山口県山口市)
 

明治時代になって長州藩で続出した奇兵隊によるクーデター

文久3年(1863)6月、高杉晋作の呼びかけにより、長州藩で「奇兵隊」が産声をあげた。門閥・身分によらない志願による軍隊で、これに続き士庶混成による部隊が陸続と誕生、一括して「諸隊」と総称された。第二次長州征討、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争と絶え間なく続く戦争で、洋式軽装歩兵を中核とする奇兵隊・諸隊は抜群の軍功をあげた。明治3年(1869)5月、箱館五稜郭の陥落で内戦は終結、諸隊は長州へ凱旋する。薩長政権が誕生したいま、兵士は藩が自分たちに報いてくれると信じていた。ところが、恩賞は上級幹部に限られ、平隊士を待ち受けていたものは、厳しいリストラだったのである。

戦傷をこうむり働けなくなった者、40歳を超えた者は、わずかな報奨金と引き替えに除隊が命じられた。内戦の終了で、5千を超える兵は、藩にとっては経済的重荷でしかなかった。藩首脳部は、持て余した諸隊を新政府で養ってもらおうと献上を申請。1500人が許可されるや、諸隊を精選して常備兵四大隊とし、その後、諸隊の解散を宣言した。こうして選から漏れた隊士が失職するのは確実になった。隊士は農家の次男・三男が多く、故郷に戻っても田畑はなく、職を失えば明日の糧にも困る人間が集まっていた。

ここに至って平隊士の不満が爆発、同年12月初め、多くの兵が山口(山口市)の駐屯地から脱走、南下して宮市(防府市宮市)や三田尻(防府市三田尻)に参集、その数は2千人に膨れ上がった。宮市は山陽道に面する宿場町。他方、三田尻は藩内随一の軍港。つまり山口藩庁(山口市)へ通じる陸海の要衝地を押さえたのである。加えて主要な関所を占拠、重要地点に18カ所の砲台を構築するなど、手練れ部隊の早業を見せた。

この事態に藩首脳部は哀れなほど狼狽し、断固たる処置を取らずに慰撫をはじめ、山口藩知事の毛利元徳自身も直々に出向いて「鎮静の上は、強いて叱り等申しつけ候義はこれ無き事につき、この段安心せしむべき事」と罪の不問を約束した。

脱走隊は帰還の条件として「解雇した兵への生活の保障、不正諸隊幹部の厳罰処分」などを強く要求した。藩は要求に屈し、解雇兵への保障を約束、不正幹部を免職や謹慎処分にした。

これにより脱走兵の激昂は沈静化したが、まだ山口へは帰ろうとしなかった。

12月19日、美弥郡岩永村(秋芳町)で農民一揆が勃発する。一揆は各地に飛び火し、長州領内は内乱の様相を呈しはじめた。首謀者は来島周蔵という奇兵隊の脱走隊士だった。実は一揆を煽動していたのは、脱走諸隊だったのだ。彼らは「政権を奪取した暁には年貢を免除する」と農民に触れまわった。脱走兵の暗躍は、藩内にとどまらなかった。全国へ密使を派遣して不満分子を糾合、政府を打倒して新政権の樹立を夢見たのである。

明治3年(1870)1月21日、脱走諸隊は大挙して藩庁を包囲、うち40名が藩庁の表門を突破して内に乱入、藩首脳部に不正幹部の処刑を強要し、数十台の砲門を藩庁へ向け、人の出入りを封鎖して糧道を断った。完全なる軍事クーデターだ。

事態に驚いて東京から急ぎ帰藩した木戸孝允は、2月8日、藩の正規軍、常備兵、長州四支藩の藩兵を三軍に分け、反乱軍を討つべく山口へと進軍させた。戦いでは7万発以上もの弾薬が費やされたといわれ、いかに激戦だったかがわかる。結局、反乱軍が敗北、数百名が捕縛された。

反乱軍の首謀者に対する処分は極めて厳しく、35名が柊刑場(山口市小鯖)で首を落とされた。刑死者はみな、幕末から維新にかけて長州のために戦った勇者だった。遺体は、刑場脇の井戸へ投げ込まれた。逃亡した諸隊残党の探索も執拗におこなわれ、最終的に133名が斬首や梟首に処された。処刑は見せしめとして死刑囚の出身村で執行された。家族や朋友はどのような思いで刑の執行を見たのだろう。

─反乱から2年後の明治5年秋、長州吉敷郡恒富村(山口市平川)から鋳銭司(山口市鋳銭司)へ向かう鎧ヶ峠で、不可思議な現象が起こった。峠に立つ小さな墓碑に庶民が群がりはじめたのである。墓に願い事をすれば必ずかなうという噂が広がったからだ。山口県では次のような布達を出して、墓碑への参詣を厳禁した。

「近頃、鎧ヶ峠なる或る墓によりて幸福を祈る者あり。始めわずかに三、四人なりしも、追々遠近より聞き伝えて群衆する由。こは何事ぞや。元来、この墓の下に埋め、これある者は、去年の春、国の掟を背きし天罰の身に報いてここに倒れたる罪人なり」

墓は、藤山佐熊という戦死した脱走諸隊兵のものであった。諸隊在陣の折り、医師だった佐熊は親切に村人の病を看てやったので、その死後、村人によって建立されたのである。布達後も参拝者がやむことはなかった。この話ひとつをとっても、長州の庶民が諸隊の反乱をどのようにとらえていたかをうかがい知ることができよう。

伊藤博文、山県有朋、井上馨、品川弥二郎、山田顕義、寺内正毅、桂太郎……。いずれも明治政府の閣僚を歴任した長州藩の元勲たちである。彼らの多くが、諸隊出身者だった。すなわち、近代日本は諸隊出身者によって形づくられたともいえる。しかしながら一方において、元勲たちとともに奮戦しながらも報われず、使い捨てられ、むなしく散っていった男たちがいたことも忘れてはなるまい。彼らの無念さは、いまなお古井戸の底深く沈殿したまま、決して昇華されることはないのである。

※本稿は、河合敦著『テーマ別で読むと驚くほどよくわかる日本史』(PHP研究所)より一部を抜粋編集したものです。

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