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第10代・崇神天皇~二皇子に下されし勅

2019年04月08日 公開

吉重丈夫

崇神天皇陵

天皇陛下の譲位と平成改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は「崇神天皇」をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

吉重丈夫著『皇位継承事典』
 

第10代・崇神天皇
世系15、即位52歳、在位68年、宝算119歳

崇神天皇の即位

皇紀513年=開化10年(前148年)、開化天皇の第二皇子として誕生された御間城入彦命(みまきいりひこのみこと)で、母は開化天皇の皇后・伊香色謎命(いかがしこめのみこと)である。

皇后・伊香色謎命は物部氏の祖である大綜麻杵命(おおへそきのみこと)の娘である。

皇紀531年=開化28年(前130年)1月5日、第二皇子・御間城入彦命が19歳で立太子される。

先帝・開化天皇が崩御される32年前に立太子しておられ、その後皇位を巡る紛争などは起きていないので、崇神天皇即位に関しての問題はなかったと判断してよい。

ところが、即位されてから9年後、後述の通り武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が反乱を起こしている。崇神天皇即位後に皇位を簒奪しようとして起こした反乱である。

皇紀563年=開化60年(前98年)4月9日、先帝・開化天皇が崩御される。

先帝・開化天皇が崩御されてから次の御間城入彦命が即位されるまでおよそ8ヶ月あまり経っている。

御間城入彦命には異母兄の彦湯産隅命(ほこゆむすみのみこと、母は丹波竹野媛)がおられ、若干調整期間があったとも推測される。しかし結局は、先帝・開化天皇の皇后の皇子・御間城入彦命が即位されることになったのであろう。

翌皇紀564年=崇神元年(前97年)1月13日、皇太子・御間城入彦命が崇神天皇として52歳で即位される。

2月16日、孝元天皇の第一皇子・大彦命(同母兄)の女王である御間城姫(みまきひめ)を立てて皇后とされる。

大彦命は孝元天皇の第一皇子で父帝・開化天皇の同母兄だから皇后は従姉に当たる。

皇紀566年=崇神3年(前95年)秋9月、都を大和国磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市)に遷された。
 

武埴安彦命の反乱

皇紀573年=崇神10年(前88年)、先々帝・孝元天皇の皇子で叔父の武埴安彦命が、妻の吾田媛(あたひめ)と反乱を起こす。

御間城入彦命の即位に当たって武埴安彦命はかなりの不満を残した状況だったと推定される。

しかし崇神天皇即位から9年後であるから、即位に対する不満というよりも、その後皇位が欲しくなっての反乱と考えるべきかとも思われる。しかも四道将軍が出征した直後に反乱を起こしているので、軍事空白を狙った反乱であった。

武埴安彦命は孝元天皇の皇子で、先帝・開化天皇の異母弟であり、崇神天皇にとっては叔父に当たる。

吾田媛は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)に、武埴安彦命は大彦命と彦国葺命(ひこくにふくのみこと)に討ち取られた。

なお、彦国葺命は第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の3世孫(4世孫という説もある)で、和邇臣(わにのおみ、和珥氏)の遠祖である。

御間城入彦命は即位される三十三年前に立太子しておられるので、先帝の開化天皇ははっきりと早くから後嗣を決めておられる。しかも謀反を起こした武埴安彦命は兄弟や一族に討たれているので、崇神天皇即位については、大方の意思は統一されていたといえる。

それに伯父の大彦命は四道将軍の一人として北陸道に、異母弟・彦坐王(ほこいますのみこと)の王子・丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)は丹波道に派遣され、いずれも崇神天皇を補佐しておられる。
 

二皇子に下されし勅

皇紀611年=崇神48年(前50年)1月10日、天皇は「二皇子に下されし勅」を発せられる。

皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと、垂仁天皇)の異母兄弟をお呼びになり、

「お前達二人どちらも可愛い。どちらを後嗣にするかを決めたい。二人それぞれ夢を見なさい」

と言われる。

二人はそれぞれ浄沐し(川で身を清めて髪を洗う)、祈りを捧げて眠る。

夜明けに兄の豊城入彦命は、「御諸山に登って東に向かって八度槍を突き出し、八度刀を空に振り上げました」と申し上げ、弟の活目入彦命は、「御諸山の頂に登って、縄を四方に引き渡し、粟を食む雀を追い払っていました」と申し上げる。

天皇はこれらの夢を占い、

「兄は専ら武器を用いたので、東国を治めるのがよいであろう。弟は四方に心を配って、稔りを考えているので、我が位を継ぐのがよい」

と詔された。

この夢占いとは別に、活目入彦命の母は皇后・御間城姫命(みまきひめのみこと)であり、豊城入彦命の母は妃・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)であるから、母の身分を考えたら、崇神天皇の特別な寵愛でもない限り、活目入彦命の即位が決まっていたのではないかとも思われる。

4月19日、弟の活目入彦命を立てて皇太子とされ、豊城入彦命には東国を治めさせた。

東国を治められて、上毛野君や下毛野君の始祖となり、その末裔が上毛野国(群馬県)、下毛野国(栃木県)を治められた。

皇紀631年=崇神68年(前30年)12月5日、在位68年、119歳で崩御される。



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