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朝鮮出兵。秀吉の目的は何だったのか?~出兵理由の学説を読む

2019年06月24日 公開

山本博文(東京大学教授)

豊臣秀吉
 

後陽成天皇が秀吉の朝鮮渡海を止めた理由

全国統一を実現した豊臣秀吉は朝鮮への出陣を命じ、天正20年(1592)、第一軍の小西行長らは4月13日に釜山城を包囲します。その後、日本軍は破竹の進撃を続け、5月3日には首都・漢城(現在のソウル)を落とします。

これに気をよくした秀吉は、同月18日、甥の関白豊臣秀次に朱印状を出し、後陽成天皇を北京に移すという構想を表明します。後陽成天皇を明の帝位につけ、大唐関白に秀次をあて、日本の帝位には若宮(後陽成天皇の皇子良仁親王)か八条宮(皇弟の智仁親王)をつけ、羽柴秀保(秀次の弟)か宇喜多秀家を日本関白にする、というものです。

そして秀吉は、いてもたってもいられず、朝鮮に渡海すると表明します。自ら軍勢を率いて、明を征服しようということでした。

これを不安に思った徳川家康と前田利家は、「船頭どもの言うには、土用のうち、7月は不慮の風が吹く恐れがあるので、万一のときは天下一同が相果てることになります。私と前田利家をまず派遣いただければ、上意の趣はおおむね命じます」と涙を流して秀吉を止めました。

このため秀吉は、自身の渡海を延期し、石田三成・増田長盛・大谷吉継の三奉行を朝鮮に派遣します。

その後、秀吉は、大政所(秀吉の母)の葬儀のため京都に戻り、正親町上皇や後陽成天皇の止めるのも聞かず再び九州の名護屋に行き、渡海の準備をします。

翌文禄2年(1593)正月5日、正親町上皇が崩御します。祖父上皇を失った後陽成天皇は、渡海の準備をしている秀吉にあてて宸翰(天皇の手紙)を出します。これには、次のようなことが書いてありました。

「高麗への下向、険路波濤を乗り越えていくことは、勿体ないことです。家臣を遣わしても事足りるのではないでしょうか。朝廷のため、天下のため、発足は遠慮なさってください。遠い日本から指示して戦いに勝つことにし、今回の渡海を思いとどまってもらえれば、たいへん嬉しく思う」

後陽成天皇は、なぜ秀吉の朝鮮渡海を止めようとしたのでしょうか。

これまでの研究では、後陽成天皇が秀吉の方針にやんわりと反対を表明した政治的な手紙だとしています。しかし、そうでしょうか。

後陽成天皇は、秀吉から北京へ行幸するという話を聞いた時、連れていく公家の人選を始めています(跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇』)。秀吉の方針に異を唱えることなど考えていません。

後陽成天皇は、まだ20歳そこそこです。秀吉が日本からいなくなることに、いい知れない不安を覚えたのではないでしょうか。このため、すがるような思いで、秀吉の渡海を止めたのだと思います。
 

秀吉の関心は明のその先にあった!?

それではなぜ秀吉は、明の征服を考えたのでしょうか。実はこれは秀吉の独創ではなく、秀吉の主君だった織田信長も大陸出兵の構想を持っていたようです。日本の史料にはないのですが、宣教師ルイス・フロイスが、1582年(天正10)11月5日付で、島原半島の口之津から発信したイエズス会総長宛日本年報の追信(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第6巻)に、信長の考えとして次のように書いています。

「毛利(氏)を征服し終えて日本の全六十六カ国の絶対領主となったならば、シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた」

この文章は、信長が本能寺の変で死んだ後に書かれているものですが、信長がフロイスに語っていたか、もしくは信長の関係者から漏れ聞こえてきたことだと推測されます。おそらく秀吉もこの構想を聞いており、心の中にあったのだと思います。

秀吉が朝鮮に出兵したのは、天正20年(1592)ですが、まだ九州も支配下に置いていない天正13年(1585)に、すでに中国への出兵を表明しています。

では、明を攻める目的は何だったのでしょうか?

これは、学説の中でもいろいろと推測されています。

1)秀吉の征服欲、名誉欲があったとする説
2)当時、明とは国交がなく、貿易もできなかったことから、明を服属させて貿易を行おうとしたという経済的な面から説明する説
3)国内の統一戦争が終わったため、不要になった兵力を国外に振り向けさせて大名を統制しようとしたという説
4)ヨーロッパ勢力が進出してきたことに対する反発という説

1から3は、古くから唱えられている説で、それぞれ秀吉の意図のある部分はつかんでいると思います。4は平川新東北大学名誉教授が主張した新しい論点です。

確実なことは、秀吉は明と講和交渉になったとき、「勘合」ということを持ち出していることです。つまり秀吉は、中国との直接的な貿易を望んでいたのです。これに関連して、4に近い説ですが、武田万里子氏が、「秀吉の目的は、明の征服ではなく、明を屈服させて、大明四百余州のうちの百カ国を割譲させようとしたもので、秀吉の関心は明そのもの、内陸ではなくて、東シナ海から南シナ海にあり、これはイスパニア(スペイン)やポルトガルというキリシタン国のアジア進出への警戒と軌を一にしている」と主張しています(「豊臣秀吉のアジア地理認識─『大唐都』はどこか─」)。

こう考えると、秀吉の大陸進出というのも、まったく無謀な計画というのではないのかもしれません。

私も、秀吉の意図は、キリシタン国に対抗するため、海禁政策をとる明に軍事的な圧力をかけ、中国沿岸から東南アジアにかけて展開していた東アジア海域の中継貿易の主導権を握るというものであった、と考えています。

一撃を与えれば、明が譲歩するという可能性がまったくないとは言い切れません。秀吉は、そもそも明の軍隊を弱いと思っていました。「明は長袖(貴族)の国だから、戦国の中で鍛えてきた日本の軍勢には敵うわけがない」と檄を飛ばしています。

朝鮮に出兵した大名たちは、朝鮮国内をすぐに制圧して平壌まで行きます。だから、秀吉もその感を強くしたのですが、そこへ明の援軍がやってきます。明の援軍は、北方警備にあたる軍隊で、明を圧迫していた女真族との激烈な戦いを経験していたので、戦争の中で鍛え抜かれていました。そのため小西行長たちは、平壌を放棄して漢城近くまで戻らなければいけませんでした。

このため秀吉も、体面を保つことができれば、明と講和してもいいと考えるようになりました。しかし、明は、秀吉を「日本国王にする」と言うだけで、他の条件は無視したことから、結局、戦いを再開することになったのです。

※本稿は、山本博文著『東大流 教養としての戦国・江戸講義』(PHPエディターズグループ』より、一部を抜粋編集したものです。



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