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じつは9人だった「賤ヶ岳七本槍」

2019年06月19日 公開
2022年12月28日 更新

『歴史街道』編集部

賤ヶ岳(滋賀県)
賤ヶ岳(滋賀県)
 

「賤ヶ岳七本槍」とは?

天正11年(1583)4月21日。美濃大垣から52キロメートルもの距離を、わずか5時間で駆け戻った羽柴秀吉の軍勢1万5千が、木之本に着陣、退却を始めた柴田勝政隊への総攻撃を開始した。

この合戦で功名を立てたのが、小姓あがりの近習や、馬廻りの若武者など、秀吉子飼いの者たち。

合戦後、秀吉から、「一番槍」として称えられ、感状と恩賞を受け取った彼らのことを、「賤ヶ岳七本槍」と呼ぶようになった。

ただし、恩賞を受け取った武将は、実際には9人いるという。

なぜ9人なのに、「七本槍」とされたのか。いくつか説がある。

ひとつは、小瀬甫庵の『太閤記』の影響。「七本槍」が出てきたのは、『太閤記』が最初で、天文11年(1542)、今川と織田が戦った「小豆坂の合戦」において、活躍した織田信秀軍の7人を「小豆坂の七本槍」と呼んだことから、それにあやかったというもの。

もうひとつは、9人のうち、桜井と石川の2人は秀吉の直臣でなく、秀吉の弟や養子の家臣であったため、外されたというものである。

有力な家臣を持っていなかった秀吉が、彼らの活躍を盛んに喧伝したからこそ、後世にその名が残ったのだろう。

秀吉の天下取りへの道を決定づける一戦で奮闘した「七本槍」、9人の猛将たちを紹介する。
 

加藤清正(1562〜1611)

合戦当時、22歳。通称・虎之助。秀吉とは親戚関係で、幼少より小姓として仕えたという。
合戦では、山路正国を討ち取ったといわれ、戦後、恩賞として3千石を与えられるが、福島正則より2千石少ないのを不服として、異議を申し立てたとも。
秀吉死後の関ヶ原合戦では、東軍の徳川家康に味方し、宇土城、柳川城など、西軍に属する九州の各城を攻略。肥後一国を与えられ、52万石の領主になった。
 

福島正則(1561〜1624)

合戦当時、二十三歳。秀吉の従兄弟で、小姓として秀吉に仕えた。
合戦では、退却する拝郷五左衛門の隊を先駆けて追い討ちしたとされ、「七本槍」で最も多い5千石を与えられた。
のち、伊予今治11万3千石の領主となる。
関ヶ原の合戦で率先して家康に協力したのは、石田三成との関係が険悪になっていたのが要因とも。
安芸、備後49万8千石の大名となったが、元和5年(1619)に改易され、越後と信濃に4万5千石を与えられて蟄居。不遇のうちに没した。
 

加藤嘉明(1563~1631)

合戦当時、21歳。通称・孫六。のちに左馬助。
三河出身で、父は松平(徳川)家康の家臣だったが、三河一向一揆で家康に敵対したため、流浪の身に。のち秀吉に仕えた。
嘉明は秀吉の養子・秀勝に近侍していたが、秀吉の播磨出兵において、独断で従軍し、北政所を激怒させた。秀吉はその血気を喜び、300石を与えたという。
賤ヶ岳合戦では、紫の母衣張を背負って奮戦。三千石を拝領した。
関ヶ原合戦では東軍に属し、伊予20万石。のちに会津43万5千石に移封。69歳で没した。
 

脇坂安治(1554〜1626)

合戦当時、30歳。近江出身。浅井長政に仕えたが、浅井氏が滅びたあと、明智光秀の与力となる。のち自ら願い出て秀吉の家臣に。
合戦では、柳ケ瀬で柴田勝政を討ち取ったといわれる。山城に3千石を与えられた。
小牧・長久手の戦いでも戦功をあげ、淡路洲本3万石の領主に。
関ヶ原の合戦では、当初西軍についていたが、小早川秀秋らとともに東軍に寝返り、伊予大洲5万3千石に加増された。
 

片桐且元(1556〜1615)

合戦当時、28歳。近江出身。父は浅井長政の家臣で、且元は、浅井氏に代わって長浜城主となった秀吉に仕えた。
合戦では、銀の切割柄絃の指物を差して奮闘し、摂津国内に3千石を与えられた。
のちに検地奉行を務め、豊臣秀頼の傅役に抜擢される。
秀吉没後、作事奉行を務めた方広寺大仏殿の鐘銘に刻まれた「国家安康」の文字が、大坂冬の陣の端緒に。戦いが始まる直前に大坂城を退去し、夏の陣の直後に病没。
 

糟屋武則(1562〜?)

合戦当時、22歳。鎌倉時代から続く名門武家の出身。三木城を守る別所長治に仕えていたが、秀吉の播磨攻めを受け、黒田孝高の推挙で秀吉の小姓となる。
賤ヶ岳の合戦では、佐久間盛政配下の宿屋七左衛門を討ち取ったという。戦後、播磨や河内に3千石を拝領。のち1万2千石を領有する。
関ヶ原の合戦では西軍につき、伏見城攻めに参加。戦後改易されるが、幕府に500石で召し抱えられたという説も。
 

平野長泰(1559~1628)

合戦当時、25歳。早くから秀吉に仕官。合戦後、河内に3千石の領地を賜る。小牧・長久手の戦いでも武功をあげ、2千石を加増。
関ヶ原の合戦では、徳川秀忠に従って中山道を行軍していたが、本戦に間に合わず。
大坂の陣では、豊臣方に味方しようとするも、江戸留守居を命ぜられ、出陣できなかった。
その後、旗本として秀忠に仕え、寛永5年(1628)70歳で死去。
 

桜井家一(?~1596)

初め秀吉に、のち秀吉の弟・秀長に仕えた。
合戦では、潜んでいた敵に槍で突かれ、崖下に転落。九死に一生を得ると、自らその敵を探し出し、首を取ったとされている。
恩賞として丹波に3千石を与えられたが、秀長の家臣だったため、七本槍から外されたといわれている。秀吉より早く、文禄5年(1596)に死去。
 

石川一光(?〜1583)

美濃の出身で、秀吉の養子・秀勝の家臣となった。
合戦では、拝郷五左衛門に槍で目を貫かれ、戦死。前夜に福島正則と口論になり、そのため武功に逸っていたとも。
秀吉はその死を惜しみ、家督を継いだ弟の長松に、感状と1千石を与えたという。

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