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皇統断絶の危機。武烈天皇(第25代)から継体天皇(第26代)への皇位継承

2019年06月28日 公開

吉重丈夫

第26代・継体天皇
世系25、即位58歳、在位24年、宝算82歳

皇紀1110年=允恭39年(450年)、第15代応神天皇の玄孫・彦主人王(ひこうしのおおきみ)の王子として近江国三尾で誕生された男大迹王(おおどのおおきみ)で、応神天皇の5世孫である。母は越前の豪族三尾氏の娘で垂仁天皇の7世孫に当たる振媛である。

父の彦主人王は男大迹王が幼少の頃に薨去されたので、母の振媛は実家の高向(福井県坂井市丸岡町高椋)に帰郷して、男大迹王を養育された。
 

後嗣なき事態

皇紀1166年=武烈8年(506年)12月8日、武烈天皇が後嗣を定めずして崩御され、皇子女もなく、後嗣のない状況に陥った。

皇紀1167年=継体元年(507年)春1月4日、大連の大伴金村、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)、大臣の巨勢男人(こせのおひと)らが協議し、越前から第15代応神天皇の5世孫・男大迹王をお迎えする。

春1月6日、臣・連らは勅命を受けて節の旗を掲げ、御輿を用意し、越前三国にお迎えに行く。

「勅命を受け」といっても天皇はおられないのであるから、群臣が協議しその結果という意味である。王は最初疑われたが、たまたま河内馬飼首(かわちのうまかいのおびと)・荒籠をご存じだったのが幸いし、事情が分かり、また大臣以下全員が懇願したのでご承諾になる。

勅命もなく、遺詔もない状況で、臣下の者が協議して皇統の人から後嗣を選任してご即位頂くという皇位継承が行われた。「天壌無窮」の神勅の「吾が子孫(うみのこ)」だけは遵守されている。

なお継体天皇の即位に関する以上の経緯は潤色されたものであって、実際は越前・近江地方に勢力を持っていた豪族が、武烈天皇の死後皇統が絶えたことを良い機会と捉え、皇位を簒奪したのであって、ここで別の王朝が生まれたとする説がある。

しかし、その前に大伴金村らは丹波の倭彦王を同じようにお迎えしようとしたが、逃亡され失敗している。それに当時の大和朝廷は朝鮮半島に出兵する軍事力を持っており、半島の三国からは常に恐れられていたので、越前・近江の豪族がその国を乗っ取るほどの軍事力を持っていたとは到底思えない。それでもこれを打ち負かして乗っ取ったのであれば、相当に大規模な戦乱があったはずで、そういった記録はどこにもない。

確かに最初は宮を樟葉に、5年10月には筒城に、12年3月9日には弟国に、そして20年9月13日に磐余玉穂宮にと3回遷され大和国に入っておられるが、これは反対勢力のあることも想定され、あらゆる意味で用心しておられたに過ぎないのである。

男大迹王と妃・目子媛(尾張連草香の娘)との間には勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ 安閑天皇)と檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ、宣化天皇)の二王がおられた。

皇紀1167年=継体元年(507年)1月12日、男大迹王は子の勾大兄皇子と檜隈高田皇子を伴われ、河内国交野郡葛葉宮(枚方市樟葉)に入られる。いきなり大和の地に入られなかったのは慎重を期しておられたのであろう。

この年2月4日、大伴連ら群臣の願いを容れ、58歳で河内国樟葉宮にて即位された。枚方市楠葉野田2丁目にある交野天神社の末社・貴船神社がその跡地と伝わる。

即位の候補者もなく、先帝の遺詔もない状況下で、群臣の協議だけで皇統の人を捜してきて、その方に即位頂いたということは、この先、極めて重要な先例として記憶されるべきである。

3月1日、大伴大連が仁賢天皇(億計王)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎えることをお願いし、天皇はこれを容れられ、「決して我が世だけのことではない、礼儀を整えて手白香皇女をお迎えせよ」と詔される。

「我が世だけのことではない」とし、万世一系を重視された。なお、手白香皇女の母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女であり、仁賢天皇の皇后である。越前から出てこられたのであるから、極力朝廷に馴染むようにされたのであろう。

3月5日、仁賢天皇(億計王)の皇女・手白香皇女を立てて皇后とされる。

天皇は皇統の危機を懸念され、即位後すぐに手白香皇女を立てて皇后とされたのである。天皇ご自身も周囲も、皇統の危機ということを相当意識しておられたことが分かる。

継体元年3月14日、8人の妃を入れられ、それぞれ多くの皇子女に恵まれる。元からの妃・目子媛には、前述の通り二人の王子がおられ、お二人とも後に安閑天皇、宣化天皇として即位される。

皇紀1171年=継体5年(511年)10月、山城国筒城宮(京田辺市)に都を遷された。

継体7年秋9月、勾大兄皇子が仁賢天皇の皇女・春日山田皇女(母は糠君娘)を妃に迎えられた。

そしてこの年12月8日、越前から一緒に出てこられた第一王子・勾大兄皇子(安閑天皇)を皇太子に立てられる。

皇紀1178年=継体12年(518年)春3月9日、都を再び山城国弟国宮(乙訓)に遷された。

そして即位から20年経った皇紀1186年=継体20年(526年)秋9月13日、都を大和国磐余玉穂宮(奈良県桜井市池之内)に遷された。3回目の遷都となった。

皇紀1191年=継体25年(531年)春2月7日、皇子の勾大兄皇子(安閑天皇)に皇位を譲られ(譲位ではなく遺詔)、その即位と同日、在位24年(先帝崩御から24年2ヶ月、即位から24年3日、皇統譜は在位25年)、82歳で、磐余の玉穂宮にて崩御される。

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