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三国同盟は「ある時点」まで日米交渉を有利に導いた~戦争調査会による検証

2019年07月24日 公開

井上寿一(学習院大学学長)

幣原喜重郎

幣原喜重郎
昭和20年(1945)10月に首相に就任。天皇制維持、新憲法草案作成などをめぐりGHQとの交渉に当たる。

昭和、平成を経て、令和を迎えた日本。時代の節目とともに歴史に関する記憶が薄れてしまい、先の戦争について「日本が愚かな戦いを行なった」という認識しか残らないとすれば、大きな不幸である。
三国同盟、日米開戦、ミッドウェー海戦、キスカ島撤退、終戦の聖断、占守島の戦い、東京裁判……いまこそ思い込みや通説の誤りを排して歴史を振り返り「太平洋戦争の新常識」を探るべく、豪華執筆者による論考を掲載した新書『太平洋戦争の新常識』が発売となった。本稿では同書よりその一部を抜粋し紹介する。

※本稿は、『太平洋戦争の新常識』(歴史街道編集部編、PHP新書)掲載、井上寿一《三国同盟は「ある時点」まで日米交渉を有利に導いた》より、一部を抜粋編集したものです。
 

幣原喜重郎は「軍部が悪い」と言わなかった

昭和20年(1945)10月9日に誕生した幣原喜重郎内閣の下で、戦争調査会という国家プロジェクトが11月にスタートした。

幣原は1920年代、外務大臣として英米との関係を重視する協調外交を推進したが、戦時中は要職から離れ、政治の表舞台から去っていた。

しかし、戦争末期から支持者たちと会い、戦後は首相を目指そうと考えて、戦争が終わった直後に、「首相になって、何をするのか」を文書にまとめている。

その中で最も字数を費やして書いたのは、「戦争はなぜ起きたのかを検証したい」ということだった。つまり、幣原の政治的個性とイニシアチブによって、戦争調査会は立ち上げられたのである。

ただし、幣原の目指す「戦争の検証」は、個別具体的な戦争犯罪人を摘発するのが目的ではなかった。彼が繰り返し口にしたのは、「戦争調査会は、裁判をするのではない」ということだった。

戦争調査会の最高意思決定機関と位置づけられた総会の第一回目は、昭和21年(1946)3月27日に開かれ、そこで幣原は3つの基本方針を示している。

一、戦争調査会は「永続的性質」を帯びている。
二、戦争犯罪者の調査は「別に司法機関とか或いは行政機関」が担当すべきである。
三、歴史の教訓を後世に遺し、戦後日本は「平和的なる、幸福なる文化の高い新日本の建設」に邁進すべきである。

そして、第一回と第二回の総会を通して、「戦争原因の追究を目指す」「戦後の平和国家の建設に役立つものとする」「多種多様な手法を採用する」との三つの方向性を、幣原は明らかにした。

幣原というと、今でも〝軍部の犠牲者〞のイメージが強い。幣原は軍部から「軟弱外交」と批判され、また協調外交も満洲事変によって幕を閉じている。

それだけに、幣原が「悪いのは軍部だ」と言ってもおかしくはないのだが、4月4日に開かれた第二回総会で、次のように「自分たちも責任があった」といった趣旨の発言をしている。

協調外交が推進された1920年代は、「平和とデモクラシーの時代」で、軍縮が進められた。その中で「軍人を蔑視し、軍隊なんか要らないとの風潮」が強まり、それが軍部の不穏な情勢を生んだ。その反感が蓄積され、満洲事変を引き起こした。だから、政権に携わる当事者だった自分たちにも責任がある……。

あらゆる立場の人が、様々な意味で、戦争とは無関係ではなかった。誰が良い悪いではなく、戦争の原因をはっきりさせたい。幣原はそこに目を向けていたのだと、私は考えている。

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