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初の女帝、推古天皇(第33代)と摂政・厩戸皇子

2019年08月12日 公開

吉重丈夫

明日香村
 

知っておきたい皇位継承の歴史

令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は推古天皇と厩戸皇子(聖徳太子)をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
 

第33代・推古天皇
世系27、即位39歳、在位36年、宝算75歳

皇紀1214年=欽明15年(554年)、欽明天皇の第三皇女として誕生された豊御食炊屋姫命(とよみけかしめやひめのみこと 額田部皇女)である。

母は大臣・蘇我稲目の女・堅塩媛(きたしひめ)で、先々帝の用明天皇は同母兄、先帝の崇峻天皇は異母弟であ

る。天皇弑逆事件を起こした蘇我馬子は母方の叔父(伯父)に当たる。

皇紀1231年=欽明32年(571年)、炊屋姫は18歳で欽明天皇の皇太子・渟中倉太珠敷命(ぬなくらのふとたましきのみこと 敏達天皇)の皇太子妃となられる。

皇紀1236年=敏達5年(576年)3月10日、渟中倉太珠敷天皇(第30代敏達天皇)の皇后に立てられた(22歳)。

皇紀1252年=崇峻5年(592年)12月8日、崇峻天皇弑逆事件の翌月、事件の首謀者である叔父・蘇我馬子に請われて39歳で即位される。

三度辞退されたが群臣百官が上奏文を奉ってようやく受諾されたといわれ、史上初の女性天皇となられた(神功皇后と飯豊天皇を歴代天皇から除外したとして)。

ここで女帝が誕生したのは、天皇弑逆という非常事態を受け、事件当事者である蘇我馬子に責任回避の思惑があり、また皇位継承資格者は複数おられたので、皇位継承を巡る争いを避けるためでもあった。事件当事者である馬子としては責任を追及されないように、身内から選ぶ必要があった。そして馬子にとっては姪に当たる豊御食炊屋姫命(推古天皇)が即位されたことで、馬子の思惑通り、責任が問われることがなかった。

馬子は大逆事件を起こしながらも、何の処罰も受けず、寧ろ蘇我氏の権勢は益々盛んとなる。通常は大逆事件としてその場で誅されるか、後に処刑されるものである。ここに馬子の「天皇弑逆事件」の暗い影がある。この事件がなければ推古天皇が即位されることはなかった。

初めての女帝であるが、実際の政務は甥(同母兄・用明天皇の皇子)で皇太子の厩戸皇子(聖徳太子)が執られた。

先帝・崇峻天皇には妃・小手子との間に蜂子皇子がおられたが、父の崇峻天皇が蘇我馬子により殺害されたため、皇子は馬子から逃れるべく都を離れられ、丹後国由良(京都府宮津市由良)から船で北へと向かわれた。そして出羽の羽黒山に登られ、出羽三山神社(月山・羽黒山・湯殿山)を開かれたと伝わっている。

蜂子皇子としては馬子の権勢で身に危険が迫り、とても皇位を競う状況下にはなかった。本来であればこの時の今上天皇(崇峻天皇)の皇子であるから皇位継承の有力候補となられるはずであった。

推古天皇 系図また、即位の候補としては、欽明天皇と妃・堅塩媛(蘇我稲目の女)の第六皇子・桜井皇子もおられた。用明天皇、推古天皇の同母弟に当たり、同じ蘇我系であり、年齢も32歳で、即位の条件は充分であったが、何故にわざわざ女帝の推古天皇が即位されたかは定かではない。この時の権力者・蘇我馬子の都合で決定されたとしか考えられない。

なお、この桜井皇子の娘の吉備姫王が敏達天皇の孫王・茅渟王の妃となり、後の皇極=斉明天皇や孝徳天皇の母となられる。

皇紀1253年=推古元年(593年)4月10日、「厩戸皇子を摂政と為し給ふの勅」を発せられる。

天皇は即位早々に、先々帝・用明天皇の第二皇子で甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とされ、摂政とされた(20歳)。聖徳太子の母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女である。穴穂部間人皇女の母は蘇我稲目の娘・小姉君である。

推古天皇は「朕は女人なり。性、物を解へず。宜しく天下の政は、皆太子(聖徳太子)に附くべし」(詔第一一八詔)と詔され、皇太子に万機を摂行させられた。

皇紀1263年=推古11年(603年)10月4日、宮を小墾田宮に遷される。

聖徳太子の発案で、この年12月5日、冠位十二階を定め、推古12年4月3日には「十七条憲法」を制定して法令整備を進め、法治国家(律令国家)としての国造りを始められる。皇紀1267年=推古15年(607年)には小野妹子が隋に派遣され、遣隋使の派遣が始まる。

皇紀1281年=推古29年(621年)2月5日、朝廷の政務を執っておられた聖徳太子が薨去される(48歳)。

「日も月も光も失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらよいのだろう」と皆が悲嘆に暮れた。聖徳太子(厩戸皇子)は当然即位を予定されていたので、これで皇位継承が変更を余儀なくされる。欽明天皇の第一皇子・敏達天皇の系統に皇位が移っていくことになる。

皇紀1286年=推古34年(626年)5月20日、蘇我馬子が死去し、息子の蝦夷が大臣に任じられた。

皇紀1288年=推古36年3月7日、蘇我馬子が死去して2年後、推古天皇が在位36年(35年3ヶ月)、75歳で小墾田宮にて崩御される。



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