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93歳の関ケ原!大島光義~信長・秀吉・家康から認められ、大名となった弓の名手

2019年09月16日 公開
2023年01月12日 更新

近衛龍春(作家)

墨俣一夜城
墨俣一夜城・太閤秀吉出世の泉
(岐阜県大垣市)
 

秀吉を撃退、信長にも認められる

道三が死ぬと、隣国尾張の織田信長が兵を進めてきたが、斎藤勢はそのつど排除した。

信長が本格的に腰を上げたのは、田楽狭間の戦いで今川義元を討った後の永禄3年(1560)6月、自ら美濃の墨俣に姿を見せた。

地の利を生かし、斎藤勢は激戦の末に織田勢を押し返した。ここでも光義の矢が閃光を放ち、織田兵を長良川の藻屑とした。

義龍が病死すると、織田勢の侵攻に拍車がかかり、そのつど光義は戦陣に立った。

永禄8年(1565)の夏、信長の家臣の木下秀吉の軍勢が稲葉山城から四里(約16キロ)ほど南東の鵜沼城へ攻め寄せてきた。同城から三里(約12キロ)ほど北の関に所領を持つ光義は、長井道利とともに、木下勢を迎え撃って跳ね返した。もう少しで秀吉を討てるといった時、秀吉の弟の秀長に側面を突かれたので、秀吉をとり逃がしてしまった。

一度は木下秀吉らの軍勢を駆逐した光義らであるが、圧倒的な織田の兵力に堂洞からの後退を余儀無くされた。長井勢は圧され、関周辺は織田方の斎藤利治に支配され、光義らの所領はなんとか守られるといった有り様で、いつ占領されてもおかしくない状況であった。

その後も斎藤勢は圧され、永禄10年(1567)9月、ついに稲葉山城を攻略された。光義は最後まで城に籠って戦ったが、力及ばず、大名としての斎藤家は滅亡。光義は60歳にして信長に仕官し、弓大将に任じられた。

弓の腕を買われた光義であるが、朋輩の武藤弥(平)兵衛から、弓衆は遠間でしか戦えぬ腰抜けどもと蔑まれた。弥兵衛は鑓一筋の武士である。光義はこれに怒り、ならば鑓で勝負すると、還暦を過ぎた身にも拘わらず、弓を置いて鑓の修行をし直し、信長に懸念されつつも3年の間、鑓で戦陣に立ち、四通の感状を賜った。同じ期間で弥兵衛は二通しか得ることができなかった。

「弓も鑓も選びがたいが、弓は多勢と戦う時に有利」と、鑓の腕を示した光義は、以後、弓を手にし直して出陣するようになり、信長から百貫文を与えられた。

元亀元年(1570)6月に行われた姉川の戦いでは、信長本隊が最前線に出ることになったので、光義は先駆けすることになり、敵数人を射倒して勝利に貢献した。

同年9月の坂本の戦いでも戦功をあげた。

翌2年の長島一向一揆討伐に失敗し、信長は柴田勝家に殿軍を命じた。光義は柴田勢に属し、熾烈な追撃を矢を射ながら躱して無事に任務を果たした。この退却戦は、同じ美濃衆の氏家卜全が討死する危険なものだった。

天正元年(1573)の小谷城の戦いでは進んで前線を駆けて城兵を射て、攻略の足掛かりを作った。

同3年(1575)5月、織田・徳川連合軍の鉄砲が活躍した長篠・設楽原の戦いでも、光義は弓を手に参じ、百発百中の腕で鉄砲に負けぬ活躍を示し、信長から賞賛された。

弓は鉄砲よりも射程が短いものの、連射が利き、雨で火薬が時化って不発に終わることもない。光義はこの利点を存分に生かした。

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