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「令和」の典拠「梅花の宴」の謎~「万葉集」には大伴氏の悲運と執念が隠されている?

2019年09月02日 公開
2022年06月23日 更新

関裕二(歴史作家)

「梅花の歌」序文に隠された大きな謎

もっとも、この序文は、万葉仮名(大和言葉を漢字で表記する)ではなく中国の南北朝時代に記された『文選』の「帰田賦の一部(「仲春令月、時和し気清らかなり」)を借用したものだ。だから、「純粋な日本の古典ではない」と、批判する者も現れた。しかし、もともと漢字そのものが中国から伝わったものだから、やむを得ない。「日本で書かれた文献から漢字を拾ってきた」という事実が、大切なのだ。

ただし、この序文、そのまま素直に「正月の楽しいひと時」と受けとるわけにはいかない。まず、中国の『文選』の一節「帰田賦」は、政権を批判する内容になっている。後漢時代の政治家で発明家、天文学者の張衡が都を離れる時、愚かだった安帝と政治腐敗に辟易して詠んだものだった。

ひょっとすると、『万葉集』編者は、その「帰田賦」の裏事情を熟知していて、あえて序文に引用したのではなかったか。というのも、この「梅花の宴」の開かれた前年、大伴旅人が頼りにしていた反藤原派の旗頭・長屋王を、藤原氏は追い詰めていたからだ。長屋王の一家は、冤罪によって、全滅の憂き目に遭っていたのだ(藤原系の妃と子だけ助けられた)。

筑紫歌壇は、都を追われた反藤原派の集まりであり、本当なら、恨み言のひとつも言いたかっただろうが、「楽しい、楽しい」と、装う必要があったのだろう。ここに、不自然な空気を感じる。

たとえば、筑紫歌壇で小野老が詠んだ歌にも、不可解な謎が隠されている。それは、『万葉集』巻三―三二八で、誰もが知る「あをによし」の歌だ。ちなみに小野老は、聖徳太子のもとで活躍した小野妹子の曽孫にあたる。

あをによし 寧楽の京師は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり

寧楽(なら)の京師=平城京の繁栄を謳いあげ、雅な景色が匂い立つような名歌だ。

ただし、引っかかる。なぜ誰も、「奇妙な歌だ」と指摘しないのだろう。考えてみればこの時代の「寧楽」は、藤原氏が高笑いしていた藤原の天下だった。平城京の繁栄を褒め称えるということは、藤原氏を礼讃することに通じる。もちろん、大伴旅人らは、藤原氏を憎み、長屋王の悲劇を、指をくわえて見ているほかはなかった。

小野老はいったい、何を考えていたのだろう。

小野老は十年ほど官位があがらず、くすぶっていた。そしてこの時、筑紫に赴任していたのだが、長屋王の変(729年)の直後から、一気に出世していく。

こういうことではなかったか。小野老は、大宰府に追いやられた人たちの動向を探るように藤原氏に命じられたのだろう。小野老は「親蘇我派」の小野妹子の末裔だから、藤原の手先になるのは、本意ではなかっただろう。しかし、長屋王の事件の直前、何かしらの理由で、受け入れざるを得なくなったのではなかったか……。

ただ、良心の呵責から、小野老は筑紫歌壇の皆に、「私はスパイだから、気を許すな」「他にもスパイがいるかもしれない」「本音を語ってはいけない」と、伝えたかったのではあるまいか。そして、「寧楽(藤原の世)の繁栄を称える歌」を、皆の前で披露することで、目的を果たしたのではなかったか。

「あをによし」の歌が詠まれた時の、筑紫歌壇の一同の驚き青ざめた表情(あるいは、ポーカーフェイスだったか)が、目に浮かぶようだ。そしてだからこそ、天平2年正月13日の「令和」が切り取られた序文の場面でも、楽しげな雰囲気を、誰もがあえて「演じた」のだろう。

多くの万葉学者が気付いていない、『万葉集』の裏側である。「令和」の元号には、悲しい歴史が横たわっていたことだけは、知っておいてほしいのだ。

『万葉集』には、これまで語られてこなかった「裏の顔」が隠されている。そこで、大伴氏と『万葉集』の話をしておこう。『万葉集』の中でも、後半の歌の数々だ。
 

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最後の歌に籠められた大伴家持の思い >

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