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九州に覇を唱えたキリシタン大名・大友宗麟の真実

2019年09月06日 公開

《PR》提供:大分市

大友宗麟

豊後をはじめ、肥前、肥後、筑前など、九州随一の勢力を誇った大友宗麟。キリシタン大名として語られることが多い彼の人生は、家督相続からすでに、決して平穏な道ではなかった。その波乱に満ちた生涯と実像に迫る。

赤神諒(作家)
昭和47年(1972)、京都市生まれ。同志社大学文学部卒。東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。私立大学教員。平成29年(2017)、「義と愛と」で第9回日経小説大賞を受賞(『大友二階崩れ』と改題して上梓)。著書に大友滅亡期の武将・柴田礼能を描いた『大友の聖将(ヘラクレス)』等がある。

※戦国最大のキリシタン大名、大友宗麟の名は当時、西洋にまで届き、ヴァン・ダイクにより肖像画まで描かれた。宗麟は諱を義鎮といい、後に受洗してドン・フランシスコと名乗ったほか、様々に改名改姓したが、本稿では「大友宗麟」で統一する。
 

大友二階崩れ

小田原発祥の大友家は、源頼朝落胤説もある初代能直に始まり、鎌倉時代初期から約300年続いて、戦国時代を迎えた。

20代義鑑の長子として享禄3年(1530)に生まれた宗麟の母は二説あるが、中国の大大名、大内義興の娘とする説は、二階崩れの変の遠因が、義鑑による大内家の影響力排除にあるとの推測の前提となる。

天文19年(1550)、21歳の宗麟を廃嫡しようとした義鑑は、家臣らにより殺害され、宗麟が大友家の家督を相続する。この惨劇は、大友館の二階で起こったために、二階崩れの変と呼ばれた。仮にこの当主交代劇が宗麟の策謀であるなら、若き宗麟はすでに乱世の英雄の片鱗を示していたといえる。宗麟は、廃嫡に関わった傅役の入田親誠を速やかに討ち滅ぼし、肥後で反旗を翻した叔父の菊池義武も討伐する(菊池討伐)。 

政変後の混乱を短時日で見事に収めて危機を乗り越えた宗麟は、運にも恵まれていた。翌天文20年(1551)、年来の宿敵、大内家の当主義隆が陶隆房の謀反で横死したのである(大寧寺の変)。大内の弱体化を受け、大友は北九州へ進出する。

このころフランシスコ・ザビエルが豊後を訪れ、府内で宗麟に謁見し、キリスト教布教の許可を得た。この邂逅が、後の宗麟の運命を決定づけた可能性がある。大友が引き換えに得た南蛮貿易の利は、中国・東南アジアとの積極的な交易を含め、その後の繁栄を経済面で支えた。
 

九州6カ国の守護となる

宗麟は陶隆房と連携して、天文21年(1552)には実弟の晴英を大内家の当主として送り込む。隆房は晴賢と改名し、晴英は大内義長と名乗る。義長は傀儡であり、5年後には毛利元就に滅ぼされる。

国内も平穏ではなかった。天文22年(1553)には宗麟が服部右京助らを討伐した府内の乱、弘治2年(1556)には小原鑑元の乱が起こった。後者は、大友一族である同紋衆と他紋衆との間のいわゆる氏姓の争いで、肥後をも巻き込んだ大規模な叛乱となったが、長引かずに鎮圧された。

先代義鑑は豊後に加えて政略で肥後の守護職を得ていたが、宗麟は天文23年(1554)には肥前、永禄2年(1559)には豊前、筑前、筑後を加えて6カ国の守護となり、九州探題職にも補任された。宗麟の外交能力は高く評価されている。

順風満帆に見えた宗麟の前に立ちはだかったのは、毛利元就であった。永禄4年(1561)、大友は毛利に大敗し、門司城を奪われる。宗麟と号したのはこの翌年とされる。

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