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明智光秀は、ほんとうに家康に腐った料理を出して、饗応役を解任されたのか?

2019年09月11日 公開

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

饗応役解任は本当か

家康が、穴山梅雪をともなって、安土城の信長のもとに御礼言上にやってきたのは、正本『兼見卿記』にあるように、5月15日のことであった。『信長公記』が「駿河・遠江両国、家康公へ進らせらる。其御礼として、徳川家康公并に穴山梅雪、今度上国候」とあるのはまちがっている。駿河は今回の甲州攻めの恩賞として与えられたが、遠江の方はすでに家康の領国であった。

ただ、安土到着が15日だったことはまちがいない。同書に、

五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至つて御参着。御宿大宝坊然るべきの由上意にて、御振舞の事、維(惟)任日向守に仰付けられ、京都・堺にて珍物を調へ、生便敷(おびただしき)結構にて、十五日より十七日迄三日の御事なり。

と記されている。

このとき、家康とともに安土に信長を訪ねたのが穴山梅雪であった。梅雪は出家してからの法号で、名乗りは信君(のぶただ)といった。母が武田信玄の姉なので、武田家当主勝頼の従兄弟にあたるという武田一門であり、しかも、小山田信茂と並ぶ重臣筆頭にランクされていた部将である。

天正10年の信長による武田攻めのときには駿河をまかされる形で江尻城にあったが、駿河口を担当した家康の勧降工作をうけ、戦わずに信長の軍門に降ってきた。武田氏滅亡直前の寝返りで、信長がこれを赦すかどうかは実に微妙なところがあったが、家康の説得があったものか、赦されることになり、その御礼言上にうかがったというわけである。

このとき穴山梅雪は、金2000枚を信長に献上している。このころの金1枚というのは10両にあたるので、現在の金地金の値段で換算すると1枚がおよそ250万円になり、2000枚では約50億円という金額になる。

一戦国大名のしかもその一部将が50億円もの大金を蓄えていたというのもおどろきであるが、穴山梅雪の場合には、自分の支配下に、甲斐下部の湯之奥金山、駿河の麓金山などをもっており、それら金山からの収益があったものと考えられる。

金2000枚の献上を受けて梅雪を大切に扱う気になったというわけではないと思われるが、家康は、永禄5年(1562)、清須同盟以来という、実に20年もの長きにわたる同盟者なので、その接待は、並の人間にさせるわけにはいかないと考えたのであろう。「在荘」ということで、いわば非番にあたっていた明智光秀にその役がまわってきたものと思われる。

もっとも、信長は、甲州からの凱旋のとき、浜松城までは家康と行動をともにしていたので、「おっつけ、御礼に参上します」という話は聞いていて、慇懃・誠実、そして緻密な光秀をその接待・饗応役にすることをあらかじめ決めていて、光秀を軍務からはずす「在荘」という措置をとっていたのかもしれない。いずれにせよ、光秀にはうってつけの仕事であった。

ただ、このあたり、『兼見卿記』や『信長公記』の記事に矛盾がないわけではない。両書の書き方からすると、5月14日に「在荘」を命じられ、翌15日に接待・饗応役を仰せつかったということになる。

しかし、『信長公記』に、「御振舞の事、維(惟)任日向守に仰付けられ、京都・堺にて珍物を調へ……」とあり、15日には、光秀はすでに、饗応すべき料理の材料を京都や堺から取り寄せていたことになる。15日に接待・饗応役を仰せつかって、その日の内に材料を取り寄せることはできないはずである。

このあたり、史料がないので、これ以上の推測は危険なのでここらでとめておくが、私は、光秀が、家康・梅雪の接待・饗応役を命じられたのはもう少し前のことで、15日には準備がすでにできていたのではないかと考えている。

ところで、このときの接待・饗応役を、光秀の手ぎわの悪さから突然解任されたとする史料がある。怨恨説の立場に立つ人は、このことも光秀謀反の背景にあったのではないかとしている。

解任されたとするもので、一番わかりやすく書かれているのは『川角太閤記』である。そこでつぎに、その関連する部分を引用しておこう。

……家康卿は駿河の国御拝領の御礼のため、穴山殿を御同道なされ、御上洛の由聞こしめさるるにつき、御宿には、明智日向守所御宿に仰せつけられ候ところに、御馳走のあまりにや、肴など用意の次第御覧なさるべきために、御見舞候ところに、夏故、用意のなまざかな、殊の外、さかり申し候故、門へ御入りなされ候とひとしく、風につれ、悪しき匂ひ吹き来たり候。其のかほり御聞き付けなされ、以の外御腹立にて、料理の間へ直に御成なされ候。此の様子にては、家康卿御馳走はなる間敷と、御腹立ちなされ候て、堀久太郎所へ御宿仰せ付けられ候と、其の時節の古き衆の口は、右の通りと、うけ給はり候。信長記には、大宝坊所を家康卿の御宿に仰せつけられ候と、御座候。此の宿の様子は、二通りに御心得なさるべく候。日向守面目を失ひ候とて、木具、さかなの台、其の外、用意のとり肴以下、残りなくほりへ打ちこみ申し候。其の悪しきにほひ、安土中へ吹きちらし申すと、相聞こえ申し候事。

やや長い引用になってしまったが、これによって、光秀の不手際→信長の叱責→饗応役解任→光秀が面目を失う→叛意を抱く、という一連のプロセスがよくわかる。

問題なのは、これらのことが果たして事実だったのかどうかである。特に最後の部分、饗応に使おうとした道具類から肴まで、すべて堀へ投げ捨てたなどということは、光秀の性格や、このころの光秀の立場からすると到底考えられない行為である。

光秀の不手際で解任されたというのは、後世創作された物語なのではなかろうか。『信長公記』は、前述のように「十五日より十七日迄三日の御事なり」と記しており、光秀が饗応役として命じられたのは、はじめから3日間と決められていたのではないだろうか。

不手際による解任ではないとすれば、光秀が信長に怨みを抱く必然性は生まれてこない。



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