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意外にアバウトだった戦国合戦~現場は敵味方の兵力も把握できずに戦っていた?

2019年11月05日 公開
2023年07月31日 更新

鈴木眞哉(歴史研究家)

戦国武将
 

戦国時代の大誤解!

歴史もののテレビドラマが果たしている役割は大きい。ことに大河ドラマには教科書にはない物語性があり、歴史知識を深めることができる。

しかし、ドラマチックな合戦や名場面にはフィクションが多く含まれており、必ずしもすべて真実の歴史を伝えているとは言えない。

戦国時代もまた然り。やはり一度は通説を疑ってみることも重要なのではないだろうか。

※本書は、鈴木眞哉著『戦国時代の大誤解』より、一部を抜粋編集したものです。
 

合戦では、敵はもとより味方すら把握できなかったらしい

後世の人間がむかしの合戦について考える場合、双方がどのくらいの人数だったか、どういう部隊区分でだれが指揮していたか、それらの部隊はどのように展開し、どういう具合に動いたかといったようなことについては、わかりきったものとして扱いやすい。もちろん、テレビドラマや映画で取り上げる場合も例外ではない。

それが高ずると、ああすればよかったではないか、こうすべきではなかったなどという机上の戦術論につながったりもする。だが、これは実際に合戦にかかわった者からすれば、大きなお世話というか、こんな腹立たしい話はないかもしれない。

囲碁や将棋にたとえれば、後世人は、すんでしまった対局について、棋譜をすべて承知したうえでものを言っているようなものである。だが、合戦の当事者はまったく違う。互いに相手の布石や駒組がはっきりとは見えないかたちで対局していたのである。気楽にタラレバ論などやっていられるような話ではない。

双方手探り状態で戦っていたことをうかがわせる話はいろいろある。

関ケ原の戦い(1600)のとき、最後の段階まで戦場にとどまった西軍・島津義弘の部隊には、東軍の諸隊が攻めかかっていったが、島津側ではそれが識別できなかったらしい。井伊直政と本多忠勝の部隊は、かねて旗印に見覚えがあったのでわかったが、それ以外は藤堂高虎ではないかと思われる部隊がいたという程度しかわからなかったと、島津の家臣が書いたものにあるそうだ。

その藤堂高虎は、大坂夏の陣(1615)のとき、河内の八尾で城方の長宗我部盛親の部隊と戦って大きな損害を出した。戦後、盛親は捕らえられたが、高虎は使いをやって、あのとき出てきた大坂勢はどのくらいだったのか、大将分はだれだれだったのかといったことを尋ねさせた。後世の人間なら容易に知りうることも、現場ではわかりがたかったのである。

その盛親も、藤堂隊を撃破したのち、横合いから出てきた部隊にやられて退却せざるをえなかった。赤備え(甲冑・馬具などを赤色に統一した部隊)だったというだけで、それがだれの部隊ともわからなかったらしい。捕らえられたのち、たまたま井伊直孝に会って、あれは自分の部隊だったと聞かされ、そうか貴公の部隊だったのかと言ったという。

ずっとのちのことになるが、元治元年(1864)、水戸の尊王攘夷派の連中が、常陸(茨城県)那珂湊に立て籠もって、幕府や諸藩の軍勢と戦ったことがある。その生き残りの人の話によると、敵側の状況はいつも真っ暗で、どこの藩が出ていて、どこに布陣しているのか、どのように攻めてくるのか、さっぱりわからなかったそうである。そのうち、戦闘に勝って敵の旗を取ったり、書類を奪ったりして、やっと見当がついたということである。

野戦では、そもそも敵の所在を把握するのがひと苦労だった。大坂夏の陣で井伊勢と戦った城方の木村重成は、敵の所在がわからないと右往左往しているうちに図らずも戦闘になってしまったと言われている。こうした事情は中世のヨーロッパでも同じで、あらかじめ日時や場所を決めて戦うことが多かったのも、騎士道精神といったものではなく、相手を見つけるのが大変だったからである。

敵情はともかく、味方のほうはわかっていたのではないかと思いたくなるが、それも実際にはおぼつかない。戦国大名の軍隊構成は、大きく分けると自分の家の兵力と、同盟ないし服属している豪族などの兵力から成り立っている。自分の家の兵力も、直属の連中と重臣などが率いてくる者たちに分かれる。直属の兵力はまだしも、それ以外は、おそらくつかみがたかっただろう。

もちろん、あらかじめ割り当てなどはするだろうが、ほんとうに期待したとおり集まるかどうかはわからない。手抜きをしてくることもあれば、〈員数合わせ〉をやって、役にも立たない者を混ぜてくることもある。そうかと思えば、サービスよく要求以上の人数を連れてくる場合もある。そうなると、机上の計算では戦闘員が何千何百、鉄砲が何百挺、槍が何百本といっても、ほんとうにそれだけいるのかどうかもつかめない。

本能寺の変(1582)のとき、明智光秀が率いていた人数は1万3000だったということになっている。これは「川角太閤記」という書物にある数字だが、それをよく読むと、光秀が亀山城外に集まった人数を見て、重臣の斎藤利三に「どのくらい、いるかね」と尋ね、利三が「まあ1万3000くらいはいるでしょう」と答えたものなのだ。光秀のように細かく軍法を定め、綿密に軍隊を運用していたとされる人でも、この程度だったのである。

こうして集まった兵力を何隊にも編成して戦うのがふつうだが、それがまたけっこういいかげんだったらしい。毛利家の家臣の記したものに、元亀元年(1570)ころの状況として、各部隊の区分とか部署がはっきりしていなかったから、前に出たい者は、われがちに第一線のほうへ進み出てしまったとある。

渡辺了という戦国の名士がいるが、その覚書を見ると、少なくとも天正11年(1583)ころまでは、秀吉のところでも、心がけ次第でだれでも先手に加わることができたとある。そうなればやる気のあるヤツは、ひと功名立てようと前に出てしまうに決まっている。逆にやる気のないヤツは、うしろに引っ込んでしまうことも生じてくる。これでは各部隊の指揮官たる者、自分の下に実際に何人いるのかさえ、わからなくなってしまうではないか。

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