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大津皇子謀反事件と第41代・持統天皇の即位



2019年10月15日 公開

吉重 丈夫

大津皇子謀反事件

天武天皇崩御の翌月、川島皇子(天智天皇の皇子)の密告により、大津皇子(天武天皇の第三皇子で草壁皇子の1歳年少)の謀反が発覚して捕縛される。密告した川島皇子は天智天皇の第二皇子で吉野の盟約にも参加しておられた。関係者30余人も捕らえられた。皇太子・草壁皇子の異母弟であり、川島皇子の6歳年少ではあるが、天武12年2月1日条には「大津皇子が初めて朝政をお執りになる」とある。

皇位継承にまつわる実に悲しい出来事であった。具体的にどのような謀反の計画があったか、謀反の実行行為として、どこまで準備がなされていたかなどは定かではない。大津皇子は鸕野讚良の同母姉である大田皇女を母とする皇子で、後嗣とされた草壁皇子に次ぐ皇位継承候補者であった。

翌10月3日、大津皇子は自害させられる。24歳であった。捕らえられた翌日のことで過酷な運命といわざるを得ない。妃の山辺皇女(天智天皇の皇女)は殉死された。

10月29日、事件に関与した者のうち大津皇子の家臣・礪杵道作(ときのみちつくり)伊豆に、新羅の沙門行心は飛驒に流されたが、他は全て詔により許された。行心は新羅の優れた僧で、大津皇子の謀反に与したが、死罪一等を許されて、飛驒の伽藍に移された。

11月16日、伊勢神宮の斎宮であられた大来皇女は同母弟・大津皇子の罪に連座し、任を解かれ都に帰された。

皇紀1349年=持統3年(689年)4月13日、先帝・天武天皇の第二皇子である皇太子・草壁皇子(28歳)が薨去された。異母弟の大津皇子が自害されて3年後のことで、これで天武天皇の意図された皇位継承の目論見が実現不可能となった。
 

2人目の女性天皇が誕生

天武天皇が崩御されてから、皇后として称制して政務を執っておられた鸕野讚良皇女が、皇太子・草壁皇子の薨去を受けて、皇紀1350年=持統4年(690年)春1月1日、急遽46歳で即位される。推古天皇に次ぐ2人目の女性天皇(女系天皇ではない)である。

天武天皇の在位中から、皇后は常に天皇を助け、側近として政務について助言しておられたので、即位に当たってはさして混乱はなかった。即位前、吉野に随行され、さらに壬申の乱の最中も常に夫・大海人皇子に付き従っておられた。

天武天皇には、草壁皇子以外に異母の皇子が多数おられ、彼らが草壁皇子の薨去後皇位に就くことを期待しておられたとしたら、持統天皇の即位によってそれが阻まれたことになる。

皇后としては皇太子・草壁皇子亡きあとは、その王子の軽皇子(天武天皇の皇孫)を即位させようと思われ、そのためには数おられる他の皇子たちを抑える必要があった。

ところがこの時、軽皇子はまだ7歳であったため、皇后・鸕野讚良皇女が自ら即位された。天智天皇の皇女であり、先帝・天武天皇の皇后であるから異論の出ようはずはなかった。

持統5年11月、大嘗祭(即位後最初の新嘗祭)を催行される。

持統8年12月6日、大和国の藤原宮(藤原京)に都を遷される。

皇紀1356年=持統10年(696年)7月10日、太政大臣・高市皇子が薨去(43歳)される。

高市皇子は天武天皇の第一皇子で、草壁皇子の8歳年長の異母兄に当たり、吉野の盟約がなければ皇位継承候補の筆頭であられた。ただ、母が筑紫宗像郡の豪族・胸形徳善の娘・尼子娘であり、身分が低かったからか、後嗣にはされなかった。

高市皇子の薨去を受け、持統天皇は皇族・公卿・官人らを召して皇太子の擁立について諮問された。群臣はそれぞれ自分の意見を言い合い、議論は紛糾した。この時、大友皇子(弘文天皇)の皇子・葛野王(かどののおおきみ)が直系による皇位継承を主張された。

「日本では神代から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いのもとである。どの皇子が最も皇太子に相応しいかとの天意を議論しても、その天意を推し測れる者などいない。血筋や長幼から考えれば、皇嗣は自ずと定まる」と。

実際には履中天皇の弟の反正天皇、允恭天皇の即位以来、兄弟間での皇位継承の実例は多く、それについて弓削皇子(天武天皇の皇子)が葛野王に問いかけようとしたが、葛野王は弓削皇子を一喝し、弓削皇子は何も言えなかったといわれている。これで数ある天武天皇の皇子たちはすべて退けられ、前皇太子・草壁皇子の王子で、天武天皇・持統天皇の孫でもある軽皇子(文武天皇)が皇太子に定められた。

壬申の乱で敗れたとはいえ、大友皇子(弘文天皇)の皇子で天智天皇の孫王である葛野王の存在は大きかった。従って、軽皇子の立太子にはこの葛野王の発言が大きく影響している。

皇紀1357年=持統11年(697年)2月16日、軽皇子が15歳で立太子される。

第一皇子・高市皇子が前年薨去され、軽皇子も15歳になられ、前述の議論で葛野王の発言もあり、他には異論は出なかったものと思われる。

8月1日、7年の在位、称制の期間を含めて11年の在位で、皇太子・軽皇子(文武天皇)に譲位され、持統天皇は太上天皇となられた。推古天皇に次いで2人目の女性天皇の誕生であったが、孫・軽皇子に皇位を引き継ぐための中継ぎの役を果たされたことになる。

この時期、大江皇女(天智天皇皇女)を母とする長皇子と弓削皇子、新田部皇女(天智天皇皇女)を母とする舎人親王、五百重娘(いおえのいらつめ 中臣=藤原鎌足の娘)を母とする新田部親王、大蕤娘(おおぬのいらつめ 蘇我赤兄の娘)を母とする穂積皇子、宮人・かじ媛娘を母とする忍壁皇子がおられたが、皇太子・軽皇子が皇位を継がれることとなった。

皇位継承資格のある皇子が多数おられただけに、中継ぎとしての持統天皇の存在は大きく、また天皇はその中継ぎとしての役目をよく果たされた。

皇紀1362年=大宝2年(702年)12月22日、退位されて5年後、58歳で崩御された。

持統天皇の後は、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙(称徳)天皇、淳仁天皇と、天武天皇の直系皇子女と、六方七代が即位される。そして8代目に天智天皇の皇子である志貴親王の王子・白壁王が光仁天皇として即位され,皇位は天智天皇の系統になる。



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