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第51代・平城天皇への皇位継承

2020年01月10日 公開

吉重丈夫

三輪三山

「令和」という新時代を迎え、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は平城天皇をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
 

第51代・平城天皇

世系34、即位33歳、在位3年、宝算51歳

皇紀1434年= 宝亀5年(774年)8月15日、桓武天皇の第一皇子として誕生された小殿(おて)親王《後の安殿(あて)親王》で、母は藤原良継の娘で先帝の皇后の藤原乙牟漏である。藤原良継は藤原式家の祖・藤原宇合の次男である。

皇紀1445年=延暦4年(785年)9月28日、先帝・桓武天皇の同母弟で皇太弟の早良親王が藤原種継暗殺事件への関与を疑われて乙訓寺に幽閉され、その後淡路へ配流となり、移動途中で憤死される(36歳)。

早良親王が本当に事件に関与しておられたのかどうかは定かでないが、無実を訴え憤死されたので、関与は疑わしい。先帝のお決めになった皇太子を廃するためにかけた嫌疑ということも考えられる。

現にこの後、関係者は早良親王の怨霊に悩まされることになった。安殿親王(平城天皇)がご不例(病)となられ、その上に桓武天皇の妃・藤原旅子が事件から3年後の延暦7年に30歳で、皇后・藤原乙牟漏が事件から5年後の延暦9年に31歳で病死された。桓武天皇と早良親王兄弟の生母・高野新笠が事件から4年後の延暦8年に70歳で病死され、さらに疫病の流行や洪水などの凶事が相次ぎ、早良親王の祟りであるとして鎮魂の儀式が執り行われた。そして早良親王を崇道天皇と追称することにされた。

いずれにしても、種継暗殺事件がなければ皇太弟の早良親王が第51代天皇として即位しておられたのである。少なくともこれが先々帝・光仁天皇のご意思であった。

この年11月25日、廃太子された早良親王に代わって、第一皇子の安殿親王が12歳で立太子される。

藤原良継の異母弟である藤原百川の娘の藤原帯子(た4らしこ)が皇太子妃となられたが、皇紀1454年=延暦13年、皇子女なく病で薨去される。

皇紀1466年=延暦25年(806年)3月17日、桓武天皇が崩御され、皇太子・安殿親王が翌18日践祚される。そして5月18日大極殿において、33歳で平城天皇として即位された。

この日元号を大同と改元される。

大同元年11月14日大嘗祭を催行された。

桓武天皇の第一皇子で皇太子であるから即位に問題はなかった。しかし、前述の通り立太子される前、皇太弟の早良親王が種継暗殺事件に対する関与を疑われ、皇太子を廃され、配流の途中で憤死されるという大事件があり、決して平穏な即位とはいえなかった。

先帝・桓武天皇崩御の2ヶ月後、大同元年5月19日、平城天皇の同母弟の神野親王(嵯峨天皇)が立太子される。平城天皇には阿保親王・高岳親王・巨勢親王と3人の皇子がおられたのに、同母弟の神野親王(嵯峨天皇)が立太子されたのは、先帝・桓武天皇の遺詔があったからだと思われる。

安殿親王(平城天皇)が即位されて、追放されていた藤原種継(式家)の娘・薬子が再び召され尚侍(ないしのかみ、内侍司の長)とされる。夫の藤原縄主(ただぬし)は大宰大弐(次官)に任じられ、九州へ赴任させられた。薬子は天皇の寵愛を受け、政治に介入するようになり、兄の藤原仲成(藤原式家の藤原種継の長男)とともに権勢を振るう。

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