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斎藤道三とは何者なのか~一代ではなく、二代で成し遂げた「国盗り物語」

2020年04月17日 公開
2023年01月12日 更新

谷口研語(歴史学者/法政大学兼任講師)

 国盗り伝説はかくして覆された

この、いわば「道三一代国盗り説」によって、長い間、美濃の戦国史研究は進められてきた。ところが、その通説は、昭和40年代(1965〜74)はじめ、岐阜県史編纂の過程で発見された一点の新史料によって、あっけなく瓦解してしまったのである。

その新史料とは、道三の死の4年後、永禄3年(1560)7月21日付けの六角承禎書状(春日家文書)。南近江の戦国大名六角承禎が老臣たちに対し、息子の義治と美濃の斎藤義龍の娘との間で進められている婚姻を止めるよう命じたものだが、そこに斎藤義龍の身上についての記述があった。

それによれば、斎藤義龍の祖父の新左衛門尉は京都妙覚寺の法華坊主が還俗したもので西村と称し、美濃の長井弥二郎のもとで出世して長井氏を名乗るまでになった。また、義龍の父の左近大夫 (道三)は長井氏の惣領を討ち殺し、その所領などを奪い取り、ついには斎藤氏を名乗るまでに成り上がった。さらに左近大夫は、土岐頼芸の息子の次郎を婿にとり、次郎が早世ののちは弟の八郎を井口に住まわせ、やがて八郎を自殺に追い込み、そのほか頼芸の息子たちを、毒殺や闇討ちでみな殺してしまった。その左近大夫の息子である斎藤義龍は、父と義絶し、弟たちを自殺させ、ついには父と合戦に及び、親の首を取ったという。

この書状からすると、京都妙覚寺の坊主が美濃に下って長井氏を名乗るまでに出世した、というところまでは、道三の父新左衛門尉(実名不詳)の事績であり、道三自身の物語は、父が築いた長井家中での実権を受け継いだところから始まることになる。

江戸時代の書物にも二代説を採るものがなかったわけではない。近江と美濃の戦国時代を記す『江濃記』は二代説を採っている。

それによれば、美濃斎藤氏の家老は長井藤左衛門と同豊後守で、豊後守は山城国西岡より牢人して斎藤家にくると、藤左衛門の与力となって戦功を挙げ、長井家の家老となる。斎藤の家督が断絶した時、斎藤の家領を両人が奪い取った。永正17年(1520)、豊後守は稲葉山に城を築いて拠った。その後、藤左衛門と豊後守は不和となったが、豊後守は病死した。豊後守の子山城守利政は、やがて長井藤左衛門を討ち取って斎藤を名乗り、みずから美濃半国を領して道三入道と号した、とある。

『江濃記』は必ずしも史料として信頼のおける書物ではないが、この部分については比較的史実に近いといえる。しかし、『江濃記』の二代説は、圧倒的な一代説の前に顧みられることなく放置されてきた。二代説が無視された背景には、『信長公記』首巻の影響もあったのだろう。

いずれにしても、もはや一代説は覆ったのであり、美濃の戦国史は二代説で組み替えられなければならない。しかし、研究は混乱した。研究の混乱は美濃戦国の混乱がそのまま反映したものではあったが、頼芸の兄だとされる政頼(頼盛・盛頼)が確かな史料では確認されず、それも研究混乱の一因だった。ようやく、昭和61年(1986)、地元の研究者横山住雄氏によって、良質の史料に散見される「頼武」という人物が頼芸の兄であることが明らかにされ、頼武の大まかな守護在職期間も推定された。これによって研究は大きく前進することになった。
 

書き直された美濃の戦国史

以上のような研究動向を踏まえ、私見をも交えて、以下に「国盗り二代説」を要約しておこう。

京都妙覚寺の坊主が還俗して長井長弘に仕え、長井氏を名乗るまでに立身したのは、道三の父の新左衛門尉である。

美濃守護第9代の土岐政房が没する前から頼武派と頼芸派の争いがはじまっており、永正16年(1519)の政房没後に10代守護となったのは、越前から帰還した頼武である。大永5年(1525)に長井長弘と長井新左衛門尉はクーデターを起こし、以後、土岐・斎藤両氏の実権を二人が握った。同8年には「次郎」が守護であり、これは頼武だろう。頼武が再度追放され、頼芸が守護となった時期は享禄4年(1531)以前だろうか。天文4年(1535)6月までには、確実に頼芸が守護になっている。

この間の天文2年(1533)、長井長弘と新左衛門尉の二人が相次いで没し、長弘の跡を景弘が、新左衛門尉(死没時には豊後守を称していた)の跡を新九郎規秀(のちの道三)が継いだ。しかし、翌年以降、景弘の活動は見られず、規秀が長井氏を乗っ取ったらしい。同6年3月以前に長井規秀は斎藤利政と改名し、同8年12月以前に左近大夫を名乗る。

同13年(1544)、尾張織田勢と越前朝倉勢が土岐次郎(おそらく頼武の子)を支援して美濃に侵攻、稲葉山城に迫ったが、斎藤利政が撃退した。この合戦では土岐頼芸と斎藤利政が連携しており、利政の頼芸追放は、これ以降のことになる。

同16年11月には「次郎」が24歳で没しており、このころ入道した道三の関与が疑われる。また、次郎の死に前後して頼芸は尾張へ亡命したらしい。同18年、尾張の織田信秀と道三の講和により、道三の娘が信秀の嫡男信長に輿入れする。これを機に頼芸は美濃へ帰還したらしく、同19年(1550)には頼芸が美濃守護の地位にいる。

道三が最終的に頼芸を追放した年については、同19年冬から同21年までの幅で諸説があり、確定できていない。

この後、同23年(1554)、道三は家督を息子義龍に譲って引退し、山城守を名乗るが、その2年後、弘治2年(1556)の長良川合戦で義龍に敗れ、悲惨な死を遂げることとなる。

道三の時代には、隣国の越前朝倉氏・尾張織田氏・南近江六角氏・北近江浅井氏がたびたび美濃に侵攻して戦乱が続いた。いずれの戦乱も元凶は新左衛門尉・道三父子二代の「国盗り」にあった。道三は長井氏の実力者という位置からスタートし、権謀術数と合戦の巧みさで「国盗り」を成し遂げたが、美濃の政情を安定させるための施策は打ち出せていない。そこが問題だった。

支配者が負う重要課題のひとつは秩序と安定である。そのビジョンを持たないまま、美濃戦国の無秩序と不安定を助長しつつ成り上がった道三は、結局、美濃侍たちの支持を得られず、かれらの支持は義龍に集まったのだった。

※本稿は歴史街道2020年4月号特集「斎藤道三と北条早雲」より転載したものです。

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