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「新選組」か「新撰組」か?、給料はいくら?~最新研究とともにたどる新選組の軌跡



2020年05月28日 公開

山村竜也(歴史作家・時代考証家)

評価を変えた池田屋事件~小隊編成は十隊か八隊か

元治元年(1864)6月5日に起きた池田屋事件で、新選組は九人の倒幕派浪士を討ち取り、御所焼き討ちという暴挙を阻止する手柄を立てた。これにより新選組の評価は一層高まり、人件費が加増されて、翌慶応元年(1865)閏5月には、150人の隊士を擁するようになったのである。

そのとき導入されたといわれているのが、全隊を十個の小隊に分け、副長助勤が各隊の組頭となって十人ほどの隊士を率いるという小隊編成だった。『壬生浪士始末記』(西村兼文著)に記された、一番・沖田総司から十番・原田左之助に及ぶ十隊編成がよく知られている。

ところが、これとまったく同時期の編成を記録した隊士山崎烝の『取調日記』が発見されて、状況が変わった。

同史料では小隊は十隊ではなく、一番隊から八番隊までの八隊とされているのだ。『壬生浪士始末記』が明治期に著されたものなのに対し、『取調日記』は幕末当時に記された同時代史料であることから、八隊編成のほうに信憑性があることはいうまでもない。

また、京都の豪商三井両替店が記録した『新選組金談一件』には、慶応2年(1866)10月時点の新選組について、やはり「一番隊より八番隊迄これあり」と記されている。これらのことから考えて、十隊編成は何かの間違いか、もしくはきわめて短期間で消滅した編成であるとみなさざるをえないだろう。

こうした編成は右の時期より以前、元治元年11月頃に長州征伐のために作成された『行軍録』でも似たような形で導入されており、一番沖田総司から八番大炮組の谷三十郎までが記録されている。したがって小隊編成の成立時期は、最大にさかのぼってもこの元治元年11月頃が限度と考えられてきた。

しかし、最近発見された『維新階梯雑誌』には、前年の文久3年12月という早い時期に、すでに小隊編成が採用された形の隊士名簿が掲載されていた。そこには一番沖田から八番松原忠司まで、はっきりと八隊に分けられた編成が記録されていたのである。

総員は42人に過ぎなかったから、一隊は5人ずつという少人数だったが、結成から日も浅いこの時期に早くも小隊編成がとられていたことは驚くべき事実であった。同時に、新選組にはまだまだ研究の余地があるということを、改めて痛感させられたのである。
 

栄光の日々から幕府崩壊へ~幹部・平隊士の手当はいくら?

右にあげた『新選組金談一件』には、「近藤氏は穏やかなる人体、土方氏はなかなか賢才これありそうらえども、短気なる気質」などとあって興味深いが、ほかにも新選組の給与待遇などが記された左記の箇所が注目される。

「組頭以上者一ヶ月御手当金壱人シ両宛、余者セ両ツヽ之由」

シ両というのは三井家で使っていた符牒(暗号)で十両のこと。同じくセ両は二両を表している。つまり、組頭以上の者はひと月に10両の手当が支給され、平隊士は同じく2両が給されていたということになる。

これは、従来の新選組関係史料には出ていなかった事実である。永倉新八が『新撰組顚末記』で、組頭は月30両、平隊士は月10両と回想していて、やや金額が多すぎるように思われていたが、実際いくらであるのかはわかっていなかった。

それが初めて同時代史料によって、三井家の者の聞き書きではあるが、金額が明らかにされたのだ。一両は現在の貨幣価値に換算しておおよそ10万円であるから、組頭に支給された10両は100万円、平隊士の2両は20万円になる。月給として比較的妥当な金額といえるのではないだろうか。

もっとも局長近藤と副長土方は、明記はされていないものの、『新撰組顚末記』にはそれぞれ五十両と四十両とあるから、割り引いたとしても30両(300万円)から20両(200万円)の月給をとっていたことが想像される。さすがに新選組の頂点に立つ二人は、うらやましいばかりの高給取りだった。

こうして名実ともに京都を制した感のある新選組だったが、彼らの手の届かないところで、いつしか時勢は勢いを増して流れていた。

慶応2年6月から9月にかけての第二次長州征伐戦争では、新選組も出陣するべく準備をしていたが、結局出陣命令が出される前に幕府方が敗れてしまった。もっとも新選組が出陣したとしても、銃火器の軍備が不十分であり、人数も150人程度の戦力では、洋式軍備の長州軍にかなうはずもなかっただろう。

この敗戦により幕府方と倒幕派の力関係は逆転し、15代将軍の徳川慶喜は戦意を喪失。翌慶応3年(1867)10月14日、朝廷に大政奉還を上表し、260余年続いた徳川の政権を手放してしまった。新選組はこれにより、拠り所を失うことになったのである。

しかし、将軍が戦意を失おうとも、幕府が崩壊しようとも、新選組は戦いをやめなかった。年明けの慶応四年(1868)正月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いで多くの戦死者を出しながら、江戸退却後に甲州勝沼の戦いに出陣し、なんとか新政府軍をくいとめようとした。

敗走後、下総流山で近藤が捕縛され、板橋で処刑されるという痛恨の出来事があっても、そのあとを土方が継いだ。新選組の残党を率いて土方は、宇都宮、会津と戦い続け、仙台で旧幕府海軍に合流して蝦夷地箱館(函館)に渡航した。

すでに新選組は、かつて無敵を誇った剣客集団とは様変わりしていたが、土方とともに戦い抜こうという気概だけは失わなかった。そして明治2年(1869)5月11日、箱館一本木の戦いで土方が銃弾を受けて戦死。18日に本営の五稜郭が降伏開城して、新選組の戦いは終わった。

「誠」の一字を染め抜いた隊旗はすでに戦場に翻ってはいなかったが、彼らが歴史に残した「誠」の精神だけは、新選組の研究がこの先いくら進もうとも、決して変わることはないだろう。



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