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明治・大正・昭和…近代日本は「未曽有の危機」にどう立ち向かってきたのか

2020年08月05日 公開
2023年01月05日 更新

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

大震災、恐慌、戦争…大正・昭和の危機

大正12年(1923)9月1日の関東大震災では、首都圏は壊滅的な被害を受け、十四万人を超える犠牲者が出ました。市中ではデマが広がり、罪のない多くの朝鮮人や中国人が虐殺されました。

ただ、組閣中だった山本権兵衛内閣は、素早く震災対応に動きます。また政府には続々と義捐金が集まり、青年団、町内会、宗教団体などの民間団体は、被災地に入って軍隊や警察とともに、人命救助や炊き出しにあたりました。医療活動のため、関東近県の医師や看護師に加え、看護学校の学生も駆けつけています。ボランティアという言葉が浸透していない時代でしたが、広汎な人道援助が展開されたのです。

政府は被害を受けた首都を建て直すために帝都復興院を設け、内務大臣の後藤新平が総裁の座につきました。後藤は東京を欧米型の最新都市に改変しようと考え、数年間で15〜16億円を支出する復興案を提示しました。国家予算に匹敵する規模です。

しかし、内閣の諮問機関である帝都復興審議会の反対にあい、総額5億7100万円に減額されました。さらに議会で多数党の立憲政友会から修正を求められ、結局、予算は1億6000万円に減ってしまいます。

ただ、大減額されたといっても復興計画の中核部分に変更はなく、これが実現していれば、東京は近代都市に変貌していたかもしれません。

しかし、思いも寄らぬ事件が起こってしまいます。無政府主義者の難波大助が摂政宮(後の昭和天皇)の車にピストルを撃ち込む虎ノ門事件が発生、山本内閣は責任をとって総辞職し、復興計画も幻に終わりました。

震災の6年後の昭和4年(1929)10月からは、世界恐慌が始まります。今回のコロナ禍は、この痛手をはるかに超えると予測されていますが、当時の日本では浜口雄幸内閣が翌年早々、金解禁政策をとって円高を招いてしまいます。そのため世界的な不況のなかで日本の製品は全く売れず、逆に安くて品質の良い舶来品が怒濤のように国内になだれ込み、昭和恐慌に見舞われました。

さらに、農村の繭価が暴落して農業恐慌も併発。企業は倒産、町に失業者があふれ、農村では欠食児童が増え、娘の身売りが横行しました。そんな大不況をV字回復させたのが、高橋是清です。その活躍については別項で詳しく語られるでしょう。

昭和恐慌で、政党内閣は国民の信頼を失いました。一方、この不況下で関東軍による満州での軍事行動(満州事変)が始まると、国民はこれを熱狂的に支持。結果としてそれが軍部の暴走を許し、日中戦争、そして太平洋戦争へつながり、国を破滅に追い込むことになります。

*      *     *

以上、見てきたように、現代にいたるまで、我が国はたびたび大きな危機を体験してきました。為政者は危機に際して強権を発動しますが、うまく対処できずに自滅するケースが多かったことがわかります。それほど、国難レベルの危機を乗りきるのは難しいのです。

一方、こうした危機にさいしては、濱口梧陵などのように、身を挺して人びとを救おうとする英雄が登場します。天武天皇や松平定信など、その後に権力を握るケースもありました。

また、危機は社会を大きく変えるきっかけをつくります。白村江の戦いで律令制度が促進され、開国で明治維新が誘発され、日露戦争で大正デモクラシーがもたらされました。もちろん、昭和恐慌で軍部の台頭という好ましくない社会変革が起こることもありますが……。

おそらく世界規模となった今回のコロナ禍は、諸国の政権を大いに揺るがすことでしょう。同時に、身を粉にして人びとに尽くす英雄や政治家も登場してくるはずです。そして、この事態は社会の変革を促進させ、アフターコロナの世界は、いまとは大きく異なるものになっていくことが、これまでの歴史から予測できるのです。

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