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明治政府が評価した戦国武将はだれ?「特旨贈位」から考察してみた

2020年09月02日 公開
2023年07月31日 更新

鈴木眞哉(歴史研究家)

戦国武将

戦国武将イメージの「通説」は江戸時代以降に作られたものが多い。鈴木眞哉著『「まさか!」の戦国武将 人気・不人気の意外な真相』(PHP文庫)では、名将たちの意外な評価を解き明かしている。ここでは本書より、明治政府が戦国武将をどう評価したか、「特旨贈位」をもとに考えてみたい。
 

戦国武将の「特旨贈位」第一号は意外な人に……

明治新政府は、天皇の特別の思し召しによって故人に贈位する「特旨贈位」ということを明治元年(1868)から始めた。本人の死後、位階を追贈することは、それまでにも行われていたが、これはもっと総合的に、建国以来さまざまな面で功績があった人たちを対象に、上は公卿や諸侯から下は在野の庶民まで幅広く取り上げようというのである。

もっとも、最初はそこまで明確な計画があったわけではないらしい。たまたま戊辰戦争に従軍して風邪をひいて死んでしまったお公家さんがいたので、それを顕彰しようということで始まった。暗殺された大村益次郎なども、死後まもなく対象になっているが、最初のうちは島津斉彬、徳川斉昭、毛利敬親、山内豊信(容堂)など、当時の〈現代人〉ばかりが並んでいる。例外は、黄門さまこと徳川光圀くらいのものである。

明治9年(1876)末に新田義貞や楠木正行といった人たちが出てきて、江戸時代より前の人たちが対象になりはじめる。結局、明治の末までに、延べ1100人余りが贈位の恩典に浴している。延べと言ったのは、同一人が重ねて贈位された例があるからである。

これだけの人間が対象になれば、そのなかには、当然、戦国武将も含まれる。

贈位者の選定は、形式的には天皇が行うといっても、実質は明治政府の判断で決められたにちがいない。とすれば、対象とされた武将や贈位の時期を見れば、政府がだれに好意を抱いていたかを知ることができるだろう。なお、贈位には正一位から従五位までの格付けがともなっているが、その点までいっしょに見ていると煩雑になるので、ここでは割愛したい。

戦国武将の贈位第一号となったのは、明治14年(1881)の武田信広である。特旨贈位者全体で見ても27番目とかなり早い部類だが、戦国武将のトップがこの人というのは意外である。専門の研究者は別として、歴史マニアでもあまり知らない名前だからである。

この人の出自や事績は不明な部分が多いが、15世紀後半に蝦夷(北海道)南部で先住民の抵抗を制圧するなどして大きな勢力を築き、松前氏の祖となった。

戦国武将のなかには〈勤王精神〉を発揮したとされる者もいくらもいるのに、それを差し置いて彼が取り上げられたのは、北海道の統治・運営が明治政府にとって重要な課題だったからなのだろうか。

武田信広に継ぐ二番目は、家康の九男で尾張藩の藩祖となった徳川義直である。と言っても、明治33年(1900)のことで、信広から義直までのあいだには約480人の贈位者が出ている。戦国武将には、政府のメガネにかなう人がよほどいなかったらしい。

義直は皇室尊崇の念が篤く、代々の藩主もそれを受け継いだと言われている。

そこが買われたのだろうが、同じく御三家でも、南朝正統論の先駆となった水戸の徳川光圀などは、明治2年(1869)に早々と贈位されている。逆に、佐幕傾向の強かった紀州藩の場合、藩祖である徳川頼宣は、大正4年(1915)まで贈位されていない。明治政府がそのあたりの〈事情〉を考慮したことは明らかである。

徳川義直以後は、明治34年(1901)に伊達政宗、翌35年に細川幽斎、黒田如水、鍋島直茂と続く。幽斎は「永く国粋の維持に力む」というところが買われたらしいが、ほかの三人が選ばれた理由はよくわからない。ちなみに、直茂の子孫で幕末の佐賀藩主だった直正(閑叟)などは、明治4年(1871)に死ぬと、5日目にご先祖さまより高い位を贈られている。

明治38年(1905)には、織田信長の父親の信秀が対象となった。これは〈勤王精神〉とか敬神の念を評価されたということらしい。1年置いた40年には、出雲松江の藩祖・松平直政、41年には毛利元就と三人の息子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景および上杉謙信が対象となっている。元就と謙信は、生前の〈勤王〉の実績を評価されたのだろうが、毛利一族がここでひとまとめに贈位されたのは、「長州閥」のバックアップによるものだろう。

それ以後も明治42年(1909)には加藤清正、越前の藩祖・徳川(結城)秀康、加賀藩主・前田利常、大垣藩主・戸田氏鉄、43年に浅野長政、池田輝政、幕府の京都所司代・板倉勝重、44年に黒田長政といった具合に続く。明治最後の年となった45年(1912)には亀井茲矩と秋元長朝の二人が贈位されている。

明治年間の40数年に贈位の恩典に浴せたのは、以上の23人だけである。歴史ファンにはおなじみの名前もあるが、あまり知られていない人もいる。たとえば、秋元長朝が上野総社(群馬県前橋市)という極小藩の藩主だったなどとただちに思い出せる人は、そうそうおられないだろう。

ビッグネームで落ちている人もたくさんいる。織田信長、豊臣秀吉、武田信玄などは、いずれも大正年間以降の贈位である。もっとも、大正以降も、ついに対象とならなかった〈大物〉も少なくない。明智光秀がダメだった理由は容易に想像がつくが、北条早雲が洩れたのは、〈姦雄〉というところが響いたのだろうか。

不可解なのは石田三成で、同じ豊臣大名でも浅野長政や加藤嘉明などまで対象になっているのに、顧みられなかった。新政府は、自分たちが倒した徳川家には冷たくて、徳川家康にも名将軍とされた吉宗にも贈位していないくらいだから、徳川の敵だったところだけでも買うべきなのに、そうはならなかった。知らず知らずのうちに、明治後の人たちにも、徳川治世下の三成観が刷り込まれていたためかもしれない。

不可解な例はほかにもあって、大正年間のことだが大坂の陣で戦死した者たちのなかで木村重成だけが選ばれて贈位されている。彼と同時に、備中高松城で水攻めにあって自刃した毛利家の家臣・清水宗治も贈位されているところを見ると、〈忠誠〉という徳目にかなったからだろうが、それなら、ほかにも該当者はいくらもいそうだ。なによりも大坂の陣で重成以上に働き、人気も高かった真田幸村や後藤基次が外された理由がわからない。

それよりもなによりも、明治年間だけで延べ1100人余りの特旨贈位者がいながら、戦国武将がたった23人しかいないというのが不思議である。明治政府の抱懐する歴史観からすれば、戦国武将などというのは、好ましい〈人種〉ではなかったということなのだろうか。

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