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鎌倉幕府の内部で巻き起こった壮絶な「権力闘争」…引き金となった13人

2020年12月19日 公開
2022年08月09日 更新

坂井孝一(創価大学文学部教授)

梶原景時終焉の地・梶原景時親子供養塔
梶原景時終焉の地・梶原景時親子供養塔(梶原山公園・静岡市清水区)

 

日本史上初の本格的な武家政権である鎌倉幕府では、創設者頼朝の源氏の血統は三代で途絶え、継承されなかった。

その断絶に至るまでの幕府内の権力闘争の歴史を描いた1冊、坂井孝一氏の『源氏将軍断絶』より、二代将軍頼家の補佐として集まった「宿老の13人」について触れた一節をここで紹介する。

※本稿は、坂井孝一著『源氏将軍断絶』(PHP新書)の一部を抜粋・編集したものです。

 

宿老の13人

ここでは、頼家を補佐する宿老13人についてみてみたい。

武士の御家人が北条時政、同義時、三浦義澄、和田義盛、梶原景時、比企能員、安達盛長、足立遠元、八田知家の9人、吏僚である文士の御家人が中原親能、同広元、善信、二階堂行政の4人、文武のバランスが取れた構成である。

このうち政所吉書始にも出仕した8人が頼家を補佐する主要メンバーといえよう。吉書始に出なかったのは盛長、遠元、義時の3人と、吏僚の行光の父行政である。

武士たちの本貫地をみると、伊豆が2人(時政・義時)、相模が4人(義澄、義盛、景時、盛長も鎌倉の甘縄を本拠とみなせばここに入る)、武蔵が2人(能員、遠元)、常陸が1人(知家)である。

初期の頃から頼朝を支えた伊豆・相模・武蔵の有力御家人を中心とした陣容といえる。

下総の千葉氏ではなく常陸の八田知家が入ったのは、頼朝の側近だったこともあるが、下野の宇都宮朝綱の弟として北関東の御家人を代表する役割を期待されたのではないか。

年齢は三浦義澄が大治2年(1127)生まれで最年長、足立遠元、安達盛長、北条時政、恐らく二階堂行政も1130年代生まれ、1140年代生まれは善信、中原親能、同広元、梶原景時、比企能員、和田義盛、八田知家、73歳の義澄を筆頭に60代、50代がそろっている。

宿老と呼ぶにふさわしい。これに対し、長寛元年(1163)生まれの義時は格段に若く、頼朝と同じ久安3年(1147)生まれの義盛より16歳も年少であった。

職務は頼家への訴訟取次ぎであるが、頼家が下した命令の執行責任者「奉行」も重要であった。義澄、盛長、遠元、義時を除く九人は、頼家期の『吾妻鏡』や文書に取次ぎもしくは奉行を務めた記録がある。

義澄は正治2年(1200)1月23日に74歳、盛長はその3ヵ月後の4月26日に67歳で死去する。高齢故に務めなかったとも思われる。

ただ、盛長は流人時代以来の頼朝の側近にして比企尼の聟という関係で13人に加えられたと考えられ、吉書始にも顔を出していないように、主要メンバーと同格ではなかった可能性がある。

同じく吉書始に出仕しなかった遠元は、在京経験豊富で文事に長け、頼朝期には公文所寄人にも選ばれており、奉行を務める能力は十分にあった。

とすれば、盛長同様、主要メンバーとはみなされていなかったと考えられよう。

問題は義時である。他の宿老よりはるかに若い上、政所吉書始にも出ず、取次ぎや奉行を務めた形跡がないとなれば、本当に13人の一員だったのかという疑問すら浮上してくる。

ただ、伊豆・相模・武蔵の武士団に派閥の力学が働いたとすれば話は別である。

伊豆は北条、相模は三浦、武蔵は比企が派閥の代表である。とくに頼家の乳母夫である比企能員と、実朝の乳母夫である北条時政は強烈に相手を意識したであろう。

能員が比企尼の聟盛長と遠元を引き入れる多数派工作を成功させたのに対し、時政一人では北条が不利である。そこで、若すぎるという難はあるが、子の義時を強引に押し込んで対抗したのではなかったか。

頼朝の後家、頼家の生母、義時の姉である政子が後押しした可能性もある。政子の推薦であれば、能員も他の宿老たちも受け入れざるを得なかったであろう。

派閥の力学の中で完全に孤立していたのが相模の梶原景時である。頼朝の右腕として秘密警察的な役割を担ってきた景時は、多くの御家人から恨みを買っていた。

同じ相模の有力者で三浦一族の和田義盛は、『吾妻鏡』正治2年2月5日条によれば、建久3年(1192)の服喪を機に侍所別当の地位を所司である景時に奪われてしまったという。

憤懣を募らせていたことは想像に難くない。かくして13人の宿老の中で、景時は最初に失脚することになる。

 

梶原景時の滅亡

発端は『吾妻鏡』によれば、正治元年(1199)10月25日条にみえる些細な出来事であった。

頼朝の乳母、寒河尼を母に持つ結城朝光が亡き頼朝を偲び、侍所で傍輩に対し「忠臣二君に事へず」と語ったことを、景時が謀叛心ありと讒訴したのである。

政子の妹で御所の女房阿波局から報せを受けた朝光が、「断金の朋友」三浦義村に助けを求め、事態は急展開する。

義村が宿老の和田義盛・安達盛長に相談すると、二人は連署状で頼家に訴えようと主張した。訴状は景時に怨みを持つ吏僚の中原仲業が執筆した。

28日、景時を糾弾する66人の御家人たちの連署状を義盛・義村が広元のもとに持参し、頼家に披露するよう求めた。

11月10日、取次ぐべきかどうか迷っていた広元に、義盛が「眼をいからせ」「殆ど呵責に及ぶ」体で迫ったため、12日、広元は連署状を頼家に披露した。

頼家は景時に「是非を陳ずべし」と命じたが、景時は弁明できず、13日、所領のある相模国一宮に下向した。12月18日、審議の結果、景時は鎌倉追放となった。奉行を務めたのは義盛と義村であった。

翌正治2年(1200)1月20日、景時が一族とともに上洛を図ったとの報が届く。時政、広元、善信らが御所で審議し、三浦義村、比企兵衛尉、糟屋有季、工藤行光以下の軍兵を派遣した。

同日、景時らは駿河国清見関で駿河の武士廬原小次郎、吉香(吉川)友兼、渋川次郎、矢部小次郎・同平次、相模の武士飯田家義らと遭遇し、狐ヶ崎で合戦を遂げて討ち取られた。23日、合戦記録が御所に献上され、広元が頼家の御前で読み上げた。

24日、幕府は景時を誅殺したこと、在京する伴類の捜索を大内惟義、佐々木広綱に命じたことを御教書で朝廷に伝えた。

『玉葉』1月29日条は「梶原景時上洛を企て、駿河国高橋(鎌倉より京方へ五ケ日の路也と云々)に於て、上下に向ふ武士、併土人等がために伐り取られ了、景時、景茂自殺、景季、景高等討伐され畢」という伝聞記事を載せる。

24日に発した御教書が5日後の29日には京都に届いていたことがわかる。

また『明月記』1月29日条は「梶原景時、頼家中将の勘当を蒙り、逐電の間、天下警衛すべきの由これを沙汰す、又院に申すと云々」つまり景時が頼家の「勘当」を受けて逐電したため、幕府が「天下警衛」を命じ、後鳥羽「院」に報告したと記す。

2月7日条には景時の「余党等追捕の間、京幷びに辺土多く以て事あり」とみえる。在京する伴類の討滅が実行に移されたのである。その後、播磨国守護職など、景時の所職と所領、一族・朋友の所領が没収され、論功行賞が行われた。

2月5日には和田義盛が侍所別当に還補された。かくして頼朝の右腕だった切れ者、13人の宿老の1人、梶原景時は一族もろとも滅亡した。

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