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品野城・河野島・明知城…織田軍はこんなにも敗北を喫していた

2020年12月24日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

 

次男が独断で出撃も大敗――天正伊賀の乱

忍者でおなじみの伊賀は、独立不羈の国といわれた。東大寺の荘園が大部分を占めていたが、悪党と呼ばれる武士集団が出現し、集団ゲリラ化して年貢を押領、地元に富を集積する中で、地侍となって村々を支配するようになった。

戦国期には守護・仁木氏を追い出し、地侍たちは一族ごとに砦を築く。そして外敵を共同で防ぐために掟書を定めて、「伊賀惣国一揆」という同盟を結び、一種の独立国を形成していた。

この伊賀へ天正7年(1579)9月に侵攻したのは、信長の次男信雄だった。信雄は伊勢国主の北畠具教から家督を継いでおり、信長には知らせずに隣国伊賀に兵8000で攻め込むが、伊賀地侍のゲリラ戦法に翻弄され大敗した。

信長は独断での出撃に激怒。「柘植三郎左衛門をはじめ大切な部将たちを死なせるとは言語道断、そんな心構えならば親子の縁を切る」とまでいい、厳しく叱責した。

だが一方で、信長は息子の失敗から、伊賀は放置できぬ国と強く認識したのだろう。翌8年(1580)3月、長年の敵だった石山本願寺とやっと和議にこぎつけると、京畿縁辺で唯一、織田の傘下に入るのを拒む伊賀平定に乗り出す。

『伊乱記』によれば、信長軍は天正9年(1581)9月、伊賀に通じる7つ口すべてから、4万数千の大軍で侵入した。

当時の伊賀の人口は推定で9万。主要な地侍は300人ばかりだったという。火器の扱いに長け、ゲリラ戦を得意とする忍者の里は信長軍で埋まり、抵抗の術を断たれた。

『多聞院日記』は「霊佛以下聖教数多、堂塔悉破滅、時刻到来、上下の悲嘆哀れなる事也」と記す。社寺も民家も焼かれ、老若男女すべてが虐殺され、伊賀は壊滅した。

1カ月余り後、信長は平定した伊賀に出向き、信雄や諸将が丹精込めて造った御座所の御殿が置かれた伊賀一宮の国見山に登り、天下掌握を目の前にした覇王たる己に満足した。

だが幾多の強敵・難敵を制圧してきた信長は、身内に芽生えた憎悪に気づかなかった。成長した息子たちを優遇して領地を与え、若い近習を重用し、諸国を切り従えて苦楽をともにしてきた宿老たちを冷遇し出す。

伊賀国見山に登ってからわずか8カ月後、京都本能寺で明智光秀の謀反に遭って、享年49で命を絶たれ、天下掌握の夢は突如として霧散した。信長の慢心が招いた凶事といえよう。

 

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