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明治維新に影響を与えた? 「水戸学」をつくり上げた徳川斉昭の生い立ち



2021年04月12日 公開

マイケル・ソントン(イェール大学東アジア研究所博士研究員)

徳川斉昭像

江戸幕府を倒し、近代日本を創り上げたのは「薩長土肥」と言われるが、水戸藩なくして、維新は成し遂げられなかったといっても過言ではない。長州の吉田松陰も、薩摩の西郷隆盛も、「水戸学」の影響を受けていたのだ。では、水戸学とはいかなるものだったのか――。ハーバードに学び、イェール大学で教鞭を執る新進気鋭の歴史学者マイケル・ソントンが、明治維新を「水戸」の視点から読み解く。

本稿では「水戸学」の理念をつくり上げた中心人物である徳川斉昭の生い立ちを紹介する。

※本稿は、マイケル・ソントン著『水戸維新』(PHP研究所)より、一部を抜粋編集したものです。

 

水戸藩創立以来の争いを経て藩主へ

9代水戸藩主・徳川斉昭は、寛政12年(1800)に7代水戸藩主・徳川治紀の三男として生まれた。幼少期のほとんどを水戸藩上屋敷小石川邸で過ごし、長兄の斉脩が水戸藩主の継嗣として教育を受けている姿をみていた。

文化13年(1816)、父が亡くなり、斉脩が藩主に就任する。他の兄弟姉妹は日本中の有力大名や公家の養子、あるいは正室となって縁づいたが、斉昭のみが部屋住みのまま留め置かれた。それは、病弱だった斉脩が若くして亡くなったり、子に恵まれなかったりした場合に備えたからだと思われる。

部屋住み時代の斉昭は、学業に時間を費やした。藩主の弟として、会沢正志斎、吉田令世という最高の侍読がつけられ、会沢は儒教に基づく倫理・政治を、吉田は日本の歴史などを厳しく教えた。

斉昭は学問を真剣に受け止め、政治や社会に対する眼差しを育むが、最大の関心事は財政問題だった。水戸藩は、領民の間に蔓延している慢性的な貧困を解決できない一方で、江戸藩邸の無駄な出費によって多額の負債を抱えていた。

藩の恒例行事として催された放生会には、高僧を呼び、多くの動物を小石川後楽園の庭に放すだけのこと(放生)に、300両もの金をかけていた。斉昭は、この無意味な慣例に多額の金を費やすよりも、単純に貧しい民に金を与えるべきであると、不満を表明している。

また、兄の斉脩が、文政7年(1824)にイギリス人が水戸藩領に上陸した大津浜事件に際して、穏当な対応をしたことにも口を挟んだ。

会沢正志斎、藤田東湖などの改革者たちは、斉脩が外交的危機に対して緊迫感をもたないことに失望していた。改革派に近い立場の斉昭が藩政批判を口にしたのは、彼らの失望に対する答えだったのかもしれない。

外国の脅威への対応だけでなく、財政危機を含めた藩政全般が沈滞し、斉昭は強い改革への思いをもちながら、改革を推進できるような立場にはいなかった。その斉昭に、兄の斉脩は「潜龍閣」という号を授けた。

「潜龍」とは、「未だ世に出ざる英雄」といった意味である。斉脩は、斉昭の性格や強い政治的信念をわかっていて、そう名づけたものと想像できる。文政11年(1828)、藩主・斉脩の病気が悪化し始め、跡を継ぐ子供がいないため、藩内では、各派による後継者選びが密かに始まった。

藩政を握る保守門閥派は、11代将軍・家斉の男子を養子に迎えようとして、幕府と交渉を始めた。これは、幕府からの財政援助を期待してのことであった。

一方、藤田東湖らの改革派は、他家に養子に出されず、部屋住みにとどめられていた斉昭を、水戸家の血統を維持する自然な流れとして推した。

この争いは文政12年(1829)まで続き、「江水大ニ騒擾ス、水藩創業以来、如此変事アルコトナシ」と表現されるような水戸藩創立以来の争いに発展する。

改革派を主導する学者などが、藩の許可なく大挙して江戸に上り(「南上」)、分家の守山藩主・松平頼慎や附家老の中山信守など、藩に影響力のある人物に面会して、斉昭を藩主に選ぶように説得、懇願した。

この後継者問題は混乱するかにみえたが、10月4日に斉脩が亡くなり、「斉昭を養子とする」という斉脩の遺書が公表されたことで、斉昭が藩主に就任することになった。

斉昭は、すぐさま改革に向けて動き始めた。斉昭の藩主就任を推進するために、法を破ってでも南上した藤田東湖、会沢正志斎などの改革派の藩士たちを要職に抜擢し、斉昭の改革政策の顧問団として仕えさせたのである。

文政13年(1830)1月、斉昭は藩主として初めて、公式な布達を藩内に出した。それは、「藩士は文武に励み、意見があるすべての藩士はその地位にかかわらず、遠慮なく意見書を出すこと」というものだった。

このあらゆる意見を聴取しようとする短い布達は、彼の率直で、直接的かつ実用本位な統治姿勢の表れであった。

のちに斉昭の理想主義は、幕末の複雑な政治現実と衝突してしまうが、斉昭が藩政改革の陣頭に立った1830年代の初め頃は、そうではなかった。社会、経済、政治問題を解決するという名のもとに、水戸の士民を、野心的かつ楽観的な改革運動に動員していったのである。

 

武士には「文武一致の教育」

天保4年(1833)、斉昭は、藩主として初めて領国の水戸に入った。飢饉に苦しむ農村の慰問を兼ねて地方を回ったり、役人に改革を督励したりするとともに、改革派を積極的に登用して人事の刷新を図った。

さらに、斉昭は四点の政策について重臣たちに評議させたが、そのなかでも「教育の義」を喫緊の課題とした。

当時の水戸藩の士風は頽廃し、藩士は他人の考えをなおざりにして、深く考えることはなかった。同僚との真剣かつ率直な対話よりも、世辞や追従で、当たり障りなく問題を覆い隠そうとした。

好事家たちは競って兜や刀や弓を集め、悦に入ったが、実戦に使用できるような鎧や武器を持っていなかった。様々な武道の流派は互いに競い合っているようにみえたが、枝葉末節の違いが広がるだけで、武の力を総合的に発展させようとはしていなかった。

多くの藩士は何世代にもわたって、奢侈の禁令が出ても黙殺してきた。大酒を飲み、騒いで喧嘩をしても一向に気にしない。俸給を子供の教育のために使うことはせず、藩の上士ですら、遊郭に登楼したり、芝居見物に費やしてしまったりする実態があった。

社会秩序の上位に立つ武士たちには、それにふさわしい性格を形成するために、文武一致を旨とする教育が不可欠だと、斉昭は主張した。そして、藩士たちが教育に対して真面目に取り組んでいないと、何度も表明し続けた。

理想とする家臣のあるべき姿について、平服・素食・忠義・奉公・学問・公益といったものを、斉昭は重要視していた。こうしたビジョンの実現のために、水戸学の思想を基底とする『告志篇』を著す。

『告志篇』は、日本の武士社会の秩序と価値を紹介するとともに、道徳教養を督励したマニフェストであり、神国思想に基づく国家中興、忠孝一致、文武一致、職務に関わる上下一致、奢侈の戒め、武士の心構えなど、10項目が示されていた。

藩主就任から熱意をもって取り組んできたにもかかわらず、自分に意見書を提出してくる者が非常に少ないと不満を述べつつ、悲しみの筆致で『告志篇』を斉昭は締めくくった。彼はそれほど、改革の方策が藩士に受け入れられることを願っていたのだ。

藩士同士の強い絆を通じて正直と忠義が培われ、武士が統治階級として立ち上がるようにしたい。そのためには、武士にふさわしい教育を受けさせなければならない。そう考えた斉昭は、藩政改革を担う人材を育てる学校―弘道館―の建設計画を、藤田東湖に命じた。

また、武士の鍛錬のための仕掛けを、いくつか導入してもいる。最も象徴的なものは、追鳥狩である。これは「狩り」と称しているが、大規模な軍事訓練の場であった。

天保11年(1840)に、最初の追鳥狩が水戸城の南方・千束原で行なわれ、3,000人の武士と2万人の雑兵が参加して、大勢の見物人たちの前で威容を示した。のちにこの追鳥狩を武蔵国から見物に訪れ、感動した者の一人が、渋沢栄一の従兄・尾高惇忠である。

安政5年(1858)に至るまでの19年間で、斉昭は9回にわたる追鳥狩を指揮、監督した。これが評判を呼び、「攘夷のために軍備を真剣に考え、実践する大名」として、高い評価を得た。

また、オランダ語のマニュアルと、それに関して知識を有する教師を長崎から雇い入れ、西洋式の近代火器・武器を製造し始めた。加えて、藤田東湖の提言を受け、領内の海岸に藩士たちを移住させ、海防を担わせている。

これら軍制における「投資」は、追鳥狩のような軍事教練とともに、攘夷に備える「軍事知識の砦」として、水戸藩の声価を高めることとなった。

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