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戦国最強武将・立花宗茂と真田信繁、それぞれの「返り咲き」

2021年04月26日 公開

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

小和田哲男

主家の盛衰、父からの影響、豊臣秀吉による引き立て、そして関ケ原での活躍と敗戦……。

戦国最強と称される立花宗茂と真田信繁(幸村)は、実は共通点が多い。

彼らの生き方が、現代人に問いかけてくるものとは――。

※本稿は、『歴史街道』2021年5月号の特集「立花宗茂と真田信繁」から一部抜粋・編集したものです。

 

「戦国第二世代」の二人の父

立花宗茂が生まれたのは、永禄10年(1567)。父は、豊後の戦国大名・大友宗麟に仕えた高橋紹運である。

真田信繁の生年は諸説あるものの、通説では宗茂と同じく永禄10年とされる。父は、甲斐の戦国大名・武田信玄に仕えた真田昌幸だ。

合戦での華々しい活躍が広く知られ、いかにも戦国武将らしい生き方をした2人だが、登場するのは少し遅く、「戦国第二世代」と称することができるだろう。

余談だが、「遅れてきた戦国武将」と評される伊達政宗もまた、永禄10年生まれだ。

宗茂、信繁が生まれ育った1560年代後半から1570年代は、戦国大名の能力──当時の言葉を使えば「器量」──次第で、領国を大きくできる時代だった。

それぞれの父が仕えた大友宗麟、武田信玄にしても、ともに九州と甲信地方で勢力を拡大し、家の最盛期を築き上げた。

また奇しくも、大友宗麟と武田信玄には、共通点がある。それは、棚ぼた式に家督を継いだのではなく、実力で当主の座をつかんだことだ。

信玄が父の信虎を駿河に逐ったクーデターは有名だが、宗麟のほうも弟に家督が譲られそうになっていたのを、「大友二階崩れの変」という一種のクーデターで父・義鑑が亡くなったのをうけ、当主の座についた。

この2つのクーデターは、宗茂と信繁が生まれる前の事件だが、それぞれ父から事件の概要を聞かされたことがあっただろう。

そうした事件を知るとともに、主家の伸張を目の当たりにしてきた2人は、いってみれば、「実力がものをいう時代」を実感する環境のもとで成長したのだ。その点で「戦国の申し子」といっていいだろう。

2人の共通点は、それだけではない。「父」の影響が大きかった点でも、似ているように思う。

宗茂は、父の同僚である立花道雪に乞われ、その婿養子となったので、実父と養父の「2人の父」がいる。

紹運も道雪も、「大友家の柱石」といって過言ではない重臣だった。

しかし、天正年間に大友家が衰え始めると、天正13年(1585)には、道雪が反大友勢力と戦う中で陣没。

その翌年には、進攻してきた島津軍を相手に、岩屋城で徹底抗戦した紹運が討ち死する。

このように、最後の最後まで主家を支え続けた「父」の生き方が、宗茂の生き方に少なからぬ影響を及ぼしたことは、想像に難くない。

信繁の場合、父の昌幸は信玄、勝頼の2代にわたって仕え、やはり相応の地位にあったが、天正10年(1582)に武田家が滅亡してしまった。

すると昌幸は、「誰につくと有利か」を巧みに計算して、北条、徳川、上杉へと服属先を変え、ついには豊臣秀吉のもとで大名となった。その判断の裏には、忍びを用いた情報収集などがあったことだろう。

家を何とか存続させようとする父の姿を通して、おそらく信繁は「情報こそが重要」など、さまざまな教訓を得たに違いない。

また宗茂になぞらえていうと、信繁の妻の父、つまり義父にあたる大谷吉継の影響も見落とすべきではないだろう。のちの関ケ原合戦において、敗れると予想しながら、友である石田三成とともに戦った人物である。

当時は姻戚関係を断ち切って判断する武将もいたので、義父の影響が強いとは限らないが、上杉景勝の人質になった信繁は、次に豊臣秀吉の人質となり、京都、大坂で過ごす時間が長かった。当然、吉継と接する機会は少なくないはずだ。

五奉行にこそ列せられていないが、吉継が秀吉に目をかけられていたのは確かであり、豊臣家における存在感は小さくない。

その吉継の薫陶を受けていたとすれば、信繁の生き方に少なからず影響があったと考えていいのではないだろうか。

 

秀吉は2人に何を見たか

天正14年(1586)、島津軍の攻勢を受けた立花宗茂は、居城の立花城を死守し、実父の高橋紹運が戦死して奪われた岩屋城を奪還するなど、奮戦した。

これは伝説的な話かもしれないが、岩屋城や宝満城が落とされたときに、「弔い合戦もせずに、敵に降伏するなどとは思いもよらない。自分とともに戦う者がいるならば、ここに残れ」といって、立花城を守り抜いたという。

その後、秀吉の九州攻めに加わって、肥後、薩摩へと進攻した。この活躍を知った秀吉は「九州の一物(逸物)」と讃え、宗茂を独立大名に取り立て、柳川を領地として与えた。

秀吉は「人を見る目」があるから、大友家当主・大友義統よりも、家臣である宗茂のほうが「大友家に代わって、これから伸びる」と見なして、抜擢したのだろう。

一方、真田信繁は豊臣政権下において、秀吉の馬廻を務めたとも、独立大名の扱いを受けていたともいわれる。

それを判別するのは難しいが、秀吉の近くにあって、前述したように大谷吉継の娘を娶っているから、「将来の豊臣家を支える有望株」と見られていたことは間違いない。

さらにいえば、上杉の人質になっていたときに上杉の軍法を学び、豊臣の人質時代には豊臣の軍法を身につけたと思われる。その点で、武将としての能力も期待されていたと見ていい。

豊臣家の家臣として、信繁が目覚ましい戦功をあげたわけではないが、宗茂も信繁もそこそこの家柄であるし、本人の器量がなかなかのものという点で、秀吉のお眼鏡にかなった武将だったのだろう。

この秀吉との関係が、関ケ原の戦いにおける2人の去就に深く関わってくる。

大友家の家臣に過ぎなかった立花家が、秀吉の引き立てで独立大名となった。その意味で、宗茂は豊臣恩顧の1人である。恩を返すために、西軍につくのは自然の流れだった。

では、信繁の場合はどうか。

もちろん、豊臣恩顧という思いはあっただろうが、それに加えて大谷吉継の娘婿だったことが大きかったのではないか。

関ケ原の戦いは、ある意味で石田三成と大谷吉継が家康に挑んだ戦でもある。吉継の側に立つのであれば、当然、西軍を選ぶことになる。

その上に、父の真田昌幸が家康嫌いだったという要素が乗るので、東軍という選択肢はあり得なかったといっていい。

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