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幕末を揺らした「天狗党」…その志は“敦賀の地”に刻まれている

2021年06月13日 公開
2021年06月15日 更新

田中純五郎(歴史ライター)

天狗党の乱
天狗党を描いた錦絵「近世史略 武田耕雲斎筑波山之図(部分、敦賀郷土博物館所蔵、敦賀市博物館画像提供)

天狗党の乱は大河ドラマ「青天を衝け」でも描かれているが、彼らは何とか、自らの志を世間に伝えようとしていた。その一方で、終焉の地となった越前には、天狗党員の若い命を救おうとしたり、生き残った者に手を差し伸べようとする人々もいた。

天狗党と越前との間に育まれたものとは──。

※本稿は、『歴史街道』2021年7月号の大型企画「天狗党、越前の散る」から一部抜粋・編集したものです。

 

なぜ、天狗党は越前に入ったか

元治元年(1864)に起きた「天狗党の乱」は、幕末の日本を揺るがせただけでなく、史上稀にみる悲劇として語り継がれている。

しかし、天狗党が越前で過ごした最期の日々と、そしてその後に起きたことを見ると、悲劇という言葉だけでは語れない、様々な側面が浮かびあがってくる。

そもそも天狗党の乱は、水戸藩内の路線対立に端を発する。

幕末の水戸藩は、藩主・徳川斉昭が下級武士を抜擢して藩政改革を推進し、尊王攘夷運動を牽引する存在となっていく。門閥層の上級藩士らはこれに反発し、抜擢された藩士を「天狗」と蔑称した。

水戸藩内では、抜擢された前者を中心とする尊攘派、後者を中心とする保守派が対立していくが、万延元年(1860)8月、徳川斉昭が没すると、さらに対立は激化。また文久3年(1863)、8月18日の政変によって、全国的に尊王攘夷運動が退潮していく。

こうした中、元治元年3月27日、尊攘派の藤田小四郎(藤田東湖の四男)らが尊王攘夷を実行すべく、筑波山で挙兵する。これが、天狗党の乱の始まりである。

天狗党は常陸を中心に幕府の追討軍と戦うが、次第に劣勢となり、大子へと移る。ここにおいて天狗党は、一大方針を掲げる。

それは、斉昭の子で、禁裏御守衛総督を務める一橋慶喜を頼ることであった。慶喜ならば、理解してくれると期待したのだ。

11月1日、武田耕雲斎を総大将とした天狗党は、慶喜のいる京都に向けて出発。その陣容は、水戸藩士や郷士のみならず、神官や医者、農民、そしてその妻子までもが加わった、約1千名に及ぶ大集団であった。

筑波山での挙兵直後は、乱暴狼藉を働く党員もいたため、武田や藤田ら幹部は、軍律を厳しくした。また無用な衝突を避けるため、沿道の諸藩には通行趣意書を渡すこととした。

天狗党は主に中山道沿いに、下野、上野、信濃を経て美濃へと進む。道中、衝突がなかったわけでなく、下仁田では高崎藩と、和田峠では高島藩・松本藩の連合軍と戦い、いずれも勝利を収めていた。

12月1日、美濃の揖斐宿に入った天狗党は、その後の進路について話し合う。京都へはそのまま西進するほうが近いが、琵琶湖方面で彦根藩が待ち構えていたからだ。もとより、彼らが望むのは、諸藩と戦うことではなく、慶喜に嘆願することであった。

そこで一行は、北上し、越前から京都を目指すことに決する。かくして天狗党は、終焉の地、越前へと向かうのである。

 

越前で示した「覚悟」と「志」

しかし、越前での行軍は過酷なものであった。季節は折しも冬。天狗党は雪の中を進むこととなったのである。

12月4日、天狗党は美濃と越前の国境にあたる難所・蠅帽子峠に挑む。大砲を担ぎ、馬を引いた一行は、何とか峠越えに成功する。

人里のある秋生に至り、一息つけると思いきや、天狗党の進路を阻もうとする大野藩によって、すでに村は焼き払われていた。

天狗党は疲れを押して、黒当戸、中島、笹又峠と進み、木ノ本へと至る。

ここでは住民に温かく迎えられ、武田耕雲斎と藤田小四郎らは、大庄屋の杉本弥三右衛門宅を本陣とする。天狗党はそのもてなしに感謝し、貴重な日本地図を二枚、残したという。

さらに宝慶寺、大本を経た天狗党は、池田へと入る。この時、善徳寺に30人ほどの党員が分宿したが、そのうちの二人が住職に自らの髻を切って渡し、「今日を命日として菩提を弔ってほしい」と頼んだ。

厳しい行軍によって、病死する者も出ており、彼らも覚悟を固めたのだろう。

住職も二人の心情に打たれるものがあったに違いない。彼らの希望通り、寺の裏山に生前墓をもうけ、供養を行なったという。

天狗党は西へと歩を進め、12月10日には今庄宿に入る。ところが、天狗党が来れば村が焼かれるとの噂が立っていたため、住民は逃げ出していた。

今庄の旧京藤甚五郎家には、党員がつけたと思われる刀傷が残されているが、厳しい情勢下で焦燥感を募らせる者もいたのだろう。

12月11日、天狗党は木ノ芽峠を越えて、新保宿に到着し、武田耕雲斎は、問屋を営む塚谷家の屋敷を本陣とした。

この時、隣村の葉原に加賀藩勢千余が待ち構えていることを知った天狗党は、「戦うつもりはなく、一橋慶喜公に嘆願するのが目的であり、通行を許可してほしい」と加賀藩側に伝える。すると、加賀藩との交渉によって、驚くべき事実が判明する。

運命のいたずらというべきか、天狗党が頼みとしていた一橋慶喜が、天狗党追討軍の総大将として、近江の海津まで出陣してきているというのである。しかも近隣には、加賀藩のみならず諸藩の兵が包囲を狭めているという。

窮した天狗党は、軍議を開く。「間道を抜け、長州へ向かおう」との声もあったが、「慶喜公に弓は引けない」との武田の意見に藤田小四郎も賛同し、ついに降伏することが決まる。その後、何度か降伏状のやりとりがあった。

渋沢栄一とともに一橋家に仕えていた渋沢喜作は、このやりとりに関与する。

藤田小四郎と面識があった喜作は、交渉の際、藤田と酒食をともにしつつ、降伏状の草案を見せた。それを見た小四郎は、「へー」と頭を押さえ、「ここまで来て、謝り証文を書くのかな」と語ったという。

慶喜に降伏状が受理されると、天狗党の身柄は加賀藩に預けられる。この時、党員は823名に減じていたが、敦賀に連行された一行は、本勝寺、本妙寺、長遠寺へと収容された。

天狗党に同情的だった加賀藩の対応は丁重そのものだったが、それは長くは続かなかった。翌慶応元年(1865)1月、天狗党の身柄が幕府に引き渡されると、待遇は一転して過酷なものとなり、一行は足枷をされた上、鯡蔵に閉じ込められてしまう。異臭と寒さで死者が出るほどであった。

だがこうして敦賀にある間も、天狗党は自分たちの志を世間に伝えようとした。

「こんど上りの天狗さん。尊王攘夷をもととして、関八州を通りぬけ〜」という歌詞をつけた手踊を蝋板に書き記しているが、これは昭和7年(1932)に成立した「長唄四季の敦賀」にも取り入れられている。敦賀の人びとも、天狗党に心寄せる面があったのだろう。

しかし、天狗党に下された処分はあまりにも重いものだった。武田や藤田らをはじめとする353名は、形式的な取り調べを受けただけで斬罪とされ、来迎寺野で刑に処されてしまうのである。残る約470名も遠島、追放などとなった。

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