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「天孫降臨」は敗者の逃避行だった?…日本の歴史を築いた“海人たち”

2021年06月16日 公開
2022年07月14日 更新

関裕二(歴史作家)

関裕二

『日本書紀』の大きな謎である「天孫降臨」そして「神武東征」は、本当は何を意味しているのだろうか? たんなる神話と、切り捨てることなどできない。実はそこには、天皇家と倭の海人たちとの深い関係が見え隠れしている。

※本稿は、関裕二著『海洋の日本古代史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

 

天孫降臨の意味

天孫降臨の意味を解き明かすことは可能だろうか。

天照大神の孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと 以下、ニニギ)は、天上界(高天原)から高千穂峰に舞い下りたが、これは「作り話」であって、問題は「次の一歩」ということになる。

それが笠狭碕(かささのみさき 鹿児島県野間岬)で、ここは倭の海人や中国商人にとって大切なジャンクションだったのだ。そして、神話は「海神と結ばれていく天皇家の祖」へとつながっていく。

笠狭碕には、記紀神話とは別に、土着の説話が残されていたと野本寛一はいう。明治40年生まれの「中村嘉二さん」の口伝を記録している。それを要約しておく(『古代史と日本神話』大林太良・吉田敦彦ほか 大和書房)。

野間岳の南麓の馬取山(うまとりやま)の下に大黒瀬(おぐろぜ)という小島があり、そこにニニギの船が漂着した。村人たちは薦(こも)と橙(だいだい)をさし上げた。ニニギは竹の杖をついて野間岳に登ったが、杖をついた場所が竹林となった。また、このあたりが海幸彦・山幸彦神話の舞台だった……。

野本寛一は、天上界から高千穂に降臨した垂直来臨型の神話を、ツングース系とみなした。大陸や朝鮮半島に多いこと、記紀の神話がまさにこれだが、笠狭碕で語り継がれてきた土着の神話は、海洋系・海人系で、水平来臨型神話だと指摘した。

その上で、普通なら降臨後は肥沃で広大な地に降りていくはずなのに、笠狭碕のような狭隘(きょうあい)な岬に赴いたのは、「野間岳を一つの信仰核とする海洋系隼人への配慮であった」といい、「南九州に根強い勢力を張っていた隼人を王権下に従えるためには、天孫と隼人との系図統合が必要であった」と、推理している(前掲書)。

 

海人のネットワークでニニギを守った

もちろんこの発想は、「神話は絵空事」というこれまでの常識を踏襲しているわけだが、ニニギが笠狭碕に船で漂着したと、神話にない独自の伝説に注目しているところが、大切だと思うし、こちらが本当にあったことなのだろう。

地方の伝承をすべて信じるわけにはいかないが、だからといって、何もかもが創作というわけでもない。少なくとも笠狭碕の場合、神話よりも現地の伝承の方が、話に整合性があるではないか。

ここで問題となってくるのは、「天皇家と婚姻関係を結んだ海神を祀っていたのが奴国(福岡県福岡市周辺)の阿曇(あずみ)氏だった」ところにある。奴国はヤマト建国後に滅亡している。

つまり、出雲やタニハ(但馬・丹波・丹後・若狭)とともに、「瀬戸内海+東海」との主導権争いに敗れ、中心集落は滅んだのであり、本当の王家の(母方の) 祖神は「敗れた神々」だったことになる。

志賀島の金印や日田市から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)は、どちらも後漢時代の至宝で、奴国王が手に入れていた可能性が高い。

それでいて、「王の墓に埋まっていない」「捨てるように埋められていた」のは謎だ。奴国の貴種たちが逃げる時に、「もどってきたら掘り返す」目的であわてて埋めたのではないかと考えられている。

奴国王は、婿殿(おそらく前述の主導権争いに敗れた日本海勢力の王で天皇家の祖)を守り、船を漕ぎ出したのだろう。

ならば、散り散りに逃げたであろう彼らは、どこに向かったのだろう。倭の海人を代表する彼らは、海人のネットワークに守られて、貝の道(九州西海岸)に沿って、笠狭碕に到達したのではなかったか。言い換えれば、天孫降臨とは、敗者の逃避行である。

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